2016年8月30日火曜日

高水山常福院から棒ノ嶺・8/26

【岩茸石山から逆川ノ丸と黒山、そして棒ノ嶺と権次入峠を望む】
下段左:不動堂下の湧水(かつての御手洗のはずだが、霊水として感得できるか否かは貴方しだい) 
下段右:不動堂裏覆屋の石仏で、中央の倶利伽羅龍王は不動尊の眷属
     ( もともと上記の水場に祀られていたはずで、近在の例として挙げられるのは南高麗の間野浅間神社の倶利伽羅不動)

昭文社・山と高原地図22『奥武蔵・秩父』2017版は大改訂の予定で、小冊子も大幅に改訂される。もちろん写真も新しくなるはずだが、近頃は木々が伸びてしまい棒ノ嶺を遠望できる場所も限られてきてしまった。名栗湖畔は棒ノ嶺と権次入峠が確認できるものの、前衛の山々が高く見えてしまうし、楢抜山や仁田山峠などは展望が開けているかどうかも分からない。ならば奥多摩側からはどうかというと、岩茸石山からだと眺望が頗る良いらしい。雨が多い今夏だが台風の接近する合間を見計らいながら、高水山から棒ノ嶺まで写真撮影を兼ねて縦走してみることにした。高水山への登山コースはJR青梅線軍畑駅から高源寺を経て1時間30分ほどである。しかし今回は、東青梅駅から都バスに乗り、終点の上成木バス停から高水山常福院を目指すことにする。成木街道(都道53号線)は青梅と名栗を結ぶ道で、上成木から小沢峠を越すと県道70号線にぶつかり、かつての下名栗村となる。したがって、どの登山口から登っても旧参道には違いないのだろうが、まず上成木側から登る道が高水山への本参道と睨んだわけだ。

東青梅駅から成木街道を走るバスは、北小曽木に寄り道した後、815頃に上成木バス停に到着した。すでに車窓から1kmほど手前の沿道に、高水山常福院の一の鳥居跡があったことを確認している。バス停にはハイキングコースの略図が掲示され、傍らにバイオトイレが設置されていて登山者には嬉しい限りだ。バス停から道標に従って「なちゃぎり林道」に入る。程なくして車道を離れ、高水山への鳥居を潜って参道に入る。ここでいう高水山は山号で、常福院が院号ということになろう。鳥居があることからしても、現在も修験寺の形態を色濃く残しているといえるだろう。この高水山と岩茸石山、それに惣岳山の三峰を古くから高水三山と称するが、そのいずれもが修験たちの修行の場であり霊域だったのであろう。宮内敏雄氏は『奥多摩』(昭19)の中で当時の縁起を紹介しているが、その記述によると、《この高水山の山名由来は「高水山縁起」を見ると「…山頂は古木森々として又平地あり、回りに四ヶ所の瀑布あり所謂白糸ノ瀧・五段ノ瀧・精進ノ瀧・舛ヶ瀧是なり、後世細に探りて四十八瀑布と称す。夫如此高山にして如此流水あり高水山と名のるのも宜なり…」とあるが、現在はこの由来のような瀑布はないようだ。》とのことである。が、これ等の滝も、今では青梅市の滝を紹介する各書に掲載されている。

一方、同じ頃に山と渓谷社から出版された田島勝太郎氏の著書に『奥多摩』がある。どちらもその後の奥多摩研究の礎ともなった本なので、読み比べてみると面白い。こちらの本には《高水山 又岩茸石山から東に分かれた支脈は高水山を起す。不動堂がある。「武蔵名勝圖會」に依れば本尊不動明王、木立像長サ二尺許。智證大師作浪切不動尊と号す剣を逆手に持給ふ尊像なり》とあり。中略。又同書に「山の名を高水山と号する事は、山中に五重の瀧あり。又山上に御手洗池などあるゆえ、高水山と称するなり。中略。五重瀧。鳥居より十町許登りて、右の方なる谷間にあり。高サは六間余にして五段に飛流する故名付也。 とあるが、私はまだ五重瀧はまだ一見しない。又頂上御手洗池などは今日見るべくもないと思う。当山の宝物に常盤御前の鏡などあると云うが、前述常盤ノ前山(※注後述)などから思い付いたものか。頂上の平地にお堂に庫裏があって、参詣も相当に多い。山脈はこれから東南に走って、雷電山となり、小曽木村に至って低い丘陵となってしまう。」と記している。この二書をもって高水山については説明できてしまいそうだが、それはともかく先に進もう。参道は旧道の趣がありとても良い雰囲気だが、ともに登っていく電柱と電線が無粋だが仕方ない。そして林道を跨いで階段を登っていくと道が緩やかになり、そこから降れば五重瀧に向かうことができる。現在は五段の滝と呼ばれているが、かつて髙水山不動尊に参詣する行者たちが、身を清めた滝でとされている。そして頭上に常福院への車道が見えると、そこから清々とした湧水がある。恐らく御手洗にして高水山不動尊を著名ならしめた霊泉であろう。

高水山の開基は智証大師とされていて、畠山重忠もこの浪切不動明王に深く帰依していたという。現在の不動堂は何度か火災を経た後、文政五年(1822)に再建されたもの。幕末とされる黒船来航が嘉永六年(1853)であるから、それより31年前のこととなる。当然、真言系の山伏たちが跋扈していたものと考えられるが、不動堂裏手の平地にはまだまだ余裕があることから、かつては僧房などがあったのかも知れない。また、そこには地蔵尊をはじめとして石仏が覆屋にまとめられているが、往昔には山中に点在していたのだろう。そして、その石仏群にあって一際目立っているのが倶利伽羅不動だ。燃え盛る炎をまとう倶利伽羅龍王が、貪瞋痴の三毒を破る智恵の利剣に絡みついている。三昧耶形でいうところの不動明王を顕す倶利伽羅剣の石像である。それは恐らくかつての御手洗池の辺に祀られていたように思う。不動堂に大きな剣が奉納されているのも、本尊である「浪切白不動」が浪を切る御姿からきているのだ。従って水との関わりが深い不動尊には違いなく、子ノ権現(天台宗)は高山不動尊(真言宗)と高水山不動尊(真言宗)に挟まれていて、大祭で一方が晴れになると、もう一方は必ず雨になるとも云われている。

少し余談となるが、果たしてニホンオオカミと山犬は同じなのだろうか。現在では同種とする説が有力ではあるが、すでに他界した祖母(明治生まれで山梨県昇仙峡の産)の話の中で、常にオオカミと山犬は別ものとして語られていた記憶がある。そもそもオオカミは悪者で山犬は民の味方として登場していた為、山犬が大口真神として祀られていることに違和感を抱いたこともなかったのだ。私の地元は東京ではあるものの、かつて農村であった時の風習が残り、御岳山への信仰も未だに続いている地域なのである。だから毎年、大口真神の御札をもらい受けるが、そこには耳の垂れた山犬の姿が描かれている。ご存知の通り、現存するニホンオオカミの剥製を見ると耳は全てピンと立っていて、そこから大口真神を重ね合わせるには少々無理があるように思う。何故そのような話をしだしたかというと、じつは不動堂に建立された狛犬の姿が、耳の垂れた山犬だからなのだ。逆に大口真神の御札を基に彫刻された可能性があるかも知れないが、文字が刻まれた部分が風化によりほとんど剥落していて年代を特定することはできなかった。秩父では大口真神を御眷属としている神社の殆どが耳の垂れた姿で御札には描かれている。因みに耳の立てたオオカミのような御札は、三峰神社や釜山神社他のほんの僅かに過ぎない。

さて、だいぶ話が長くなって恐縮だが、上成木バス停からを830にスタートして常福院には940着。そして巻き道を行かず尾根道を行くとすぐに高水山山頂に着いた。ほとんど展望もなく平凡な山頂である。そして常福院からの道を合わせて尾根道が続く。この尾根道のプロフィールは生活道に近いもので、それは岩茸石山の手前まで続いていた。惣岳山の青渭神社も高水山の霊域の一つなのであろうが、この山道も高水三山を結ぶ連絡道に違いない。ただし、高水山方向から登る道はハイキング道で少しばかり急である。このショートカット道を登ると惣岳山方向から道を合わせてすぐに793mの山頂へと至る。北方の眺望があり逆川ノ頭、都県境界尾根の黒山、そして権次入峠、棒ノ嶺と目で追い駆けて行く。夏の低い雲が多いが、棒ノ嶺の山容を撮影するには支障はない。前述の田島本『奥多摩』には《郡村誌に従えば、この名称は二俣尾地方の名で、大丹波では障子岩山と云うように記載してあるが、障子岩は同山北面の岩場の名で、今日は一般に岩茸石山で知られている。障子岩等の岸壁に岩茸が生ずるから此名を得たのである。》とある。因みに前述した宮内氏の記述に精進ノ瀧があるのを見た。これが髙水山開基の智證大師が修行したとされる精進ヶ滝で、障子岩にあることから別名「障子ヶ滝」とも呼ばれている。

岩茸石山ではハイカーの姿も見かけたが、名坂峠から先はすれ違うことも全くなかった。皆さん、名坂峠から升が滝を経て上成木バス停に降ったか、或いは大丹波を経て川井駅へと下ってしまったようである。(宮内本には極指方面では大丹波峠というとある)しかし黒山へと続く尾根道は落葉樹が多く雰囲気も明るい。だが、小さなピークのアップダウンを繰り返す山道は、馬道であった痕跡もなく旧道の持つ趣は持ち合わせてはいないようだ。やがて841mの逆川ノ丸を通過する。ここで再び田島本を引用すると《郡村誌に従えば成木村方面では常盤ノ前山と云うとある。常盤御前に関する伝説もあるように聞くが成木村奥に常盤と云う小部落あるに基ずくもので、常盤御前に関係ない事は明らかである。》宮内本の内容もほぼ同じだが、こちらは飯能の常盤御前伝説についても言及している。常盤御前とは源義経の母で、奥武蔵では多峯主山に常盤御前の墓があることになっているのだ。言い忘れたが、先ほどの名坂峠から上成木方面に下ると、道中に畠山重忠が切ったとされる切石もあるようだ。斯様にして一々伝説を訝しがってみても詰まらない。むしろ、そうした歴史上の人物の足跡を繋いでみるのも楽しいのではないだろうか。

都県境界の尾根となる黒山842.3mの別称はコカハヅル山というそうだが、今まで実際にその山名を聞いたことはない。この黒山も落葉樹林が多く、秋になれば落葉して棒ノ嶺と権次入峠が写真に収められるかも知れないが、とても秋頃まで待ってはいられない。また、権次入峠付近にも棒ノ嶺山頂が撮影できるポイントがあったのだが、その場所も現在では植林で囲まれている。杉やヒノキは成長するのも早いのだ。権次入峠から急坂を登って棒ノ嶺山頂に到着したのが1330。ここまでは予定通りであったが、前を歩いていた山ガールのお二人さんが山名標示板の脇で昼食休憩となった為、写真撮影は彼女たちが立ち去るのを待つことになる。だが、後は下山してさわらびの湯にでも立ち寄れば良いだけなので、さほど焦る必要もないだろう。とはいえ、山頂を辞したのは1430のことで、岩茸石から湯基ノ入コースを歩いてみたかったのだが、もう一度名栗ダムから棒ノ嶺山頂を確認したいこともあって白谷沢コースを下って行った。このところ降り続いた雨は白谷沢を増水させていたが、歩くだけならとくに危険な箇所もない。名栗湖畔で写真撮影を繰り返し、さわらびの湯に到着したのは1420のことだった。後はひと風呂浴びてバスの発車時間を待てば良い。

ところで、棒ノ嶺の山名因については何度も紹介しているのだが、宮内本の『奥多摩』に詳しく書かれているのでご一読されたい。ここでは畠山重忠伝説の基になった石神(金精様)についての記述に触れておきたい。少なくとも前述の二書が書かれた時代には折れた石棒も現存していたらしく、宮内氏は位置まで丁寧に記録している。《峠は何の特徴もないが、その展望は遉がに広濶である。西方にドウムを擡げる棒ノ折山までは茫々たる茅戸のうねりを衝いての急登だ。その山頂で更に定評ある眺望を堪能したら南に下降、角石と地図にも記載された岩塊かの所から小尾根を急降下し、植林の中のジグザグが終わって沢辺が近くなると、路傍に重忠の投げ捨てたという石棒を見る。ゴンヂリ沢、漢字で宛てると権次入沢となる水流に附いて下ると、程なく大丹波川の出合となり、みちは磧を渉って右岸の大丹波林道に併さる。》なるほど、ここまで明確に記されていると現地を訪れてみたくなる。次回は上成木バス停から升が滝を経て名坂峠へ。そして大丹波に下り大丹波川を遡って百軒茶屋から石神をさがしつつ棒ノ嶺を目指すというコースはどうだろう。考えただけでもワクワクしてくる。やはりこの二書は奥多摩登山の金字塔といっても過言ではないようだ。

2016年8月4日木曜日

白石集落から堂平山・7/29


【定峰峠稜線上より望む笠山(右端は七重峠(籠山のタル)】
下段左:籠岩洞内(ヒカリゴケか?) 下段右:定峰峠道(砂利は不必要)

籠岩のヒカリゴケは梅雨時に確認しよう…そう思いながら7月も末となってしまったが、今年の梅雨は幸いにして長いとはいえ、この日を逃すと次は来年になるかも知れない。早朝530の急行に乗れば、720には白石車庫バス停に到着するだろう。そうして小川町駅から眺めた堂平山と笠山は、どんよりとした厚い雲に覆われている。ヒカリゴケが湿気を好むのならおあつらえ向きの天候である。今回は白石車庫バス停からは篭山のタルへは向かわずに、細山集落を経て白石峠へと向かうルートをとった。ここ数年間は通ったことがなかったからだ。『新編武蔵風土記稿』に掲載されている地名で現在も残されている小字は、細山、丸塚、野土、唐沢、竹花、猪鼻、茗荷沢、経塚、夏内で、山名に関しては笠山、飯盛山、高谷山、ゾンゲ山の順に並んでいる。このうち、飯盛山は剣ヶ峰の別称であることは周知であるが、高谷山とは電波塔のある874m峰か828m峰となるが、注釈に「村の南にあり」とある。つまり「川木沢の頭」となるはずだ。ゾンゲ山は定峰峠と(旧)定峰峠の間にある701m峰のことで、この山名は定峰側でも用いられている。

旧白石村は、東秩父村を貫く県道11号線を南進して不動橋を渡った辺りからをその境域とする。そしてバスは予定通り720分には荻殿橋の袂となる白石バス停へと到着した。笠山参道入口を左に見て進み、七重峠(籠山のタル)への分岐にある馬頭尊を過ぎて槻川源流となる沢沿いをさらに登る。細山はこの馬頭尊の東側上部の山腹に展開する集落だ。さらにその上部には堂平古代寺院の伝承もある。今回は籠穴のヒカリゴケも気になるが、恐らく慈光寺の奥ノ院であったとされる堂平山の古代寺院についても検証を試みるつもりだ。槻川源流へ向の道は白石峠に続く峠道でもある。但し、よほど治水の必要があったらしく、かなりの数の堰堤が建設されて渓流の面影は最早どこにもない。しかしながら、沢を離れると落葉樹の道となるので、わずかな区間だが良い雰囲気となる。ところで、峠の手前に建立された石仏は首から上を消失した地蔵尊と思われるが、両手で宝珠を持つものの錫杖は携えておらず、頭部がないことには今一つ判然としないように思う。

白石峠に到着したのは910で、峠に着く頃には霧も晴れあがっていた。この先は気温もどんどん上昇していくだろう。前夜に12Kmばかりランニングしたばかりであったが、ノンビリと歩いてばかりもいられない。じつは白石峠と七重峠間にはほぼ平行に標高を保って進む未舗装路がある。出来たばかりの頃はオフロードバイクが走っていたが、現在は全面通行止となっている。この道路を管理しているのは東秩父村なので、林道奈田良線と林道荻殿線を結ぶ村道なのか。建設目的がよく分からないまま興味ももたなかったが、堂平古代寺院伝承のある平坦地の上部を走っているので今回初めて歩くことにした。建設されたばかりの頃は見晴らしも良かったはずだが、現在では半分は藪と化しており、好事のハイカーが残した踏み跡が細々と続くのみだ。この道は白石峠の「槻川源流の碑」より端を発するが、しばらく歩くと剣ヶ峰より槻川へと注ぐ小滝があり、水場を求めてやってきた鹿が「ピィ」と一声して走り去って行った。細山集落から100m程標高の高い所には平坦地が広がっており、かつての耕作地ではないかと思われる。また前述の通り、堂平古代寺院の伝承もあり、秩父札所1番の観音様も往古にはこの地に祀られていたものだと云う。

この道は標高650m付近を進み、やがて林道荻殿線にぶつかって10分ほどで七重峠へと達する。今年はもう何回この峠に足を運んだだろう。七重集落方面に下の林道へと降って行くと蕨が大きく葉を伸ばしていた。下の林道を降りて林道から籠岩を見上げてみても、緑に覆い隠されて、そこが岩壁とは思えない。籠穴もしかりで今の季節に場所を特定するのは難しい。そして林道脇にザックをデポして籠穴のところまで登ってみた。岩は湿っているので、乾燥した時期とは違った苔類が繁茂しているようだが、それがヒカリゴケであるかは確認できない。籠穴の洞内にも落ち葉が溜まり、残念なことにかなり埋まってしまっていてあまり暗くないからだ。しかしそれも想定していたことなので、さほど落胆することもない。それより気になるのは、神山弘氏が記録した堂平へと続く《七重―伽藍―篠畝―金苔峠―花溝―堂平》までのルートである。このうち確定している篠畝から先が籠穴の辺りだとすると、金苔とはヒカリゴケのことだった可能性は多分にあると云えそうだ。篠畝付近の林道の傍らには「七重峠休憩所」があり、到着したのが1130。ここから稜線伝いに「星と緑の創造センタ―」(堂平山山頂)へと足を向けることにする。

ときがわ町の設定したトレッキングコースもあるが、距離的には短いので当然ながら稜線を辿った方が時間の短縮になる。但し取りつきが不明瞭なので、林道から見上げた大岩の頭に達するまでは境界杭を目当てにトラバース気味に登る。すると標高700m付近に50坪程の平削地が出現する。そして50m下にも耕作地になりそうな平坦地があった。だが、仮にここを古代寺院(仮に原慈光寺)とすると、先ほど想定した堂平へのルートとは齟齬をきたしてしまう。いや、そもそも今しがた通ってきたばかりの篠畝からの稜線ルートは貧弱すぎる。もし建造物が存在したのならば道の痕跡がなければならない。この堂平山東稜に平坦地があったことは知っていたが、周辺を探索すると材木搬出用道がすぐ近くにあった。前にときがわ町トレッキング道を歩いた時に見かけた分岐に繋がっていることはすぐに分かった。下へと続く道も林道剣ヶ峰線に行き当たるだろう。となれば、伽藍辺りから分岐してこの平坦地に繋がっていたことは容易に想像ができる。しかし、それでもそこが原慈光寺だったとは云い難い。恐らく白石の堂平や釈伝寺と同様の本寺前段の宗教施設だったように思う。言い替えれば七堂伽藍の一つだったのではないだろうか。私は現在「星と緑の創造センター」になっている場所こそ原慈光寺のあった場所ではないかと思っている。

一説には慈光寺の開祖を役ノ行者として山岳修験を意識させるが、台密の関東別院として繁栄するにしたがい本寺を山裾に移転していったのではないだろうか。慈光寺は最盛期に七十五の僧房を擁していた。山岳宗教として始まった頃は、籠岩など修行の場に適していたのだろうが、数多の修行僧が生活の場とするには堂平山では水源が不足する。慈光寺とかつての僧房群の周辺には、現在も七つの井戸が確認できる。恐らく源頼朝の庇護を受けるころには、すでに慈光寺も堂平山から拠点を移していたのであろう。平坦地から堂平山東の稜線は道も急登になるが、防火帯と呼べるほどハッキリしている。だが「星と緑の創造センター」に到着したのは1310で、すぐさま管理棟に出向いて「ガリガリ君」を購入する。そしてここで昼食を済ませて堂平山山頂から剣ヶ峰と繋いで白石峠へと戻る。この時点で1440なので、16時前までには定峰峠へ到着することができるだろう。定峰の「峠の茶屋」で蕎麦をいただきながら、おばちゃんに訪ねたいことは沢山ある。

白石峠から定峰峠までは展望もない道で、七峰縦走ハイキングの為なのか途中に山道に不釣り合いな手摺が続く。鉄道会社に危険だからとまさかクレームをつけたわけでもないだろうが、そうしたことも考えられないことではない。こうしたイベントハイキングを体力バロメーターと勘違いして先を急ぐ中高年がじつに多いからだ。そして予定通り16時前には「峠の茶屋」に到着したものの、出かけてしまっておばちゃんは留守だった。勿論、店に世代の違う女性もいるのだが恐らく私と同年代。おばちゃんは今年で83歳だからかなり昔の話も知っている。じつは白石の吉野沢川にあるという七瀧不動が前から気になっているのだが、坂本だったか上ノ山だったかに同名の不動堂があったように思う。すると七瀧とは旧槻川村にまたがっているのだろうか。一つ解決してもまたその次がある、そして最後にはそれらが繋がっていたりすることも珍しくない。それが奥武蔵、そして秩父だからだ。

定峰峠から白石バス亭へのルートは、かつて「峠の旅人掲示板」にも書いたことがある。だが、それは『陸則図』のルートを文字にしただけで実際に歩いたことはなかった。(恐らく相当の藪だったはずである)ところが、近年になってこの旧道が復活していた。七峰縦走ハイキングの参加者が増え、エスケープルートとして需要が急増した為だろう。ルート的には急こう配を上手に避けた旧道そのものであったが、再生させる際に砂利を敷いてしまったのはいただけない。砂利を敷くと水捌けが良くなるとか草が生えないと思ったら大間違いで、昔の人の履物は草鞋であるし馬だって石コロがあったりしたら脚を痛めてしまう。何よりも旧道の雰囲気が台無しだ。この旧道は白石バス停まで続いているが、途中で県道を何度も渡らねばならず自動車とバイクには十分注意が必要だ。また、音のしない自転車(ロードバイク)にはとくに気を付けるべきだ。そして県道沿いの食堂脇を通るのだが、「通行禁止」の札がかけられているので白石車庫バス停に向かえば良い。無用のトラブルは避けた方が賢明だ。定峰峠から白石車庫バス停までは40分も見ておけば良い。現行の運航時刻は17時台のバスもある。


2016年7月6日水曜日

有馬の大淵―清掃遡行・7/2


【神秘的な雰囲気を取り戻した有間の大淵】
下段左:太さ30cmの流木を何本も切り刻む 下段右:作業に没頭する参加者の皆さん

5月初旬にUさんと棒ノ嶺に登り、仙岳尾根から有馬大淵に行ったところ、大淵は倒木だらけの有様だった。雪で倒れた木々が大淵に流れ着いて引っ掛かってしまったならば少し量が多すぎる。何故なら雪が降るのは例年のことで、何年か訪れないことがあったにせよ、これほどまでに荒んだ状況は見たことがない。恐らく地元の人が定期的に清掃していたのかも知れないが、さしもの龍神様も嫌気がさしてどこか遠くに行ってしまったようにも思える。前に奥武蔵研究会の顧問であった春日俊吉氏の記述を掲載したことがあったが、ここで再び紹介させていただくことにする。

 『山と高原』86号(昭24)  「奥武蔵のエチケット」 春日俊吉
    一、人間像の恢復
昔を思うと何も彼も駄目でウス汚くヨゴれている、というのがどこの場合でも適用する概念らしい。ヨゴれているのは元より人間の心であって、奥武蔵の小ちゃくて低いけれども、あれでも立派な大自然の一部なのだから、あくまでも清浄で無垢である。花も咲けば、鳥も歌うし虫も鳴く。例の尾崎士郎君が、機嫌のよいときよく歌った文句の通り、まったく「青きはサバの肌にして、黒きはヒトのこころ」かも知れない。
  奥武蔵・奥多摩・奥高尾と、なにが奥だか私もまだよくはわからないが、これらの山々は土曜日の午食の席上で、忽ち談判一決して、それからのこのこ出発のプランに着手しても結構間に合う場所だから、地理的にひどく恵まれている一方ずいぶん種々雑多な人々が登山をする。阪神地方の六甲や生駒山、京都の東山、西山とよい勝負であろう。誰だって、生まれてすぐオトナになる者はない。みなこういう手近な所から山歩きのABCを習得して、しかる後に二千五百米、三千米級の山や雪や岩壁へと進む順序である。
  そこでたまたま、標題のようなトピックの存在価値が生じてくる。登山のエチケットは所詮人間の問題だ。尾崎士郎君の歌のように、果たして人間のこころが黒いと相場がきまっているならば、山は永遠に荒れるだろう。長い間の戦争で、われわれの心象はとかく唯物論に傾きかけている。ここ当分は山もキレイにならぬと私は思う。大部分の日本人が「人間像を喪失」してしまったのだから、山が荒れるのはやむを得まい。
  なんとかして一日も早く、人間像を恢復させるべく努めねばならぬ。神さまを、もう一度この地上へ取り戻すことである。私は天性のオプティミスト(楽観主義者)だから決して前途を悲観しない。間もなく人のこころも黒の一点ばかりでなく、赤くも白くも桃色にも、ピンク色にも恢復するものと信じている。だから編集者のこういう難問題にたいしても、忽ち破顔一笑、二つ返事で以下の一文を執筆する。他人さまが人間像を蘇生させるのを待つ前に、まず自分だけでも山を愛しつつ、相も変わらずにこにこと笑顔をつくって、私の可愛らしい山・奥武蔵をそぞろ歩こうと思うのである。(二、三は省略)

この記述は戦後すぐに書かれたもので「人心が唯物論に傾きかけて」いたかどうかはわからないが、当時の人々がどす黒い戦争に束縛された生活から解放され、敗戦と引き換えに自由な感覚を取り戻したことは確かであろう。ゼロからの復興とはいえ新しい時代の幕開けとばかり、人々は貧しいながらも活気に満ち溢れていた。自分は戦後に幼少期を過ごしているので、今の世の中には随分と閉塞感を感じている。ルールなど作らなくとも世の中には道理というものがあって、これに暗黙裡に従っていたから日本人の美徳が生きていた。だがいつの間にか利己主義とやらが横行し、気が付いてみたら格差社会の中で見て見ぬ振りをしながら暮らしている。まさに「人間像の喪失」したようにも感じられ、今さらながら70年も前に書かれた春日俊吉氏のメッセージが的を射ていると思う。と、何やら大げさになってしまったが、荒んだ大淵の状況を見るに偲びず大掃除をしなければ気がすまなくなっていた。他の山岳会においては、どこも清掃山行を行っているし、奥武蔵を主な活動フィールドとしている奥武蔵研究会が清掃をするのは当然ともいえた。とはいえ、流木や倒木の処理はそう簡単なものでもない。ベテランはもうご高齢であるし、高山に登りたがる若い人たちはそういったことには無関心である。参加者はそう多くないとみて用意した鋸鎌(しかも百均)は5本だけ。少しセコいようだが、草刈りをする範囲は限られているし、実用というより記念品といった意味あいなのだ。

さて、当日は600に車で自宅を出て730には「さわらびの湯」駐車場に到着した。普段は平日のこととて気にも留めなかったが、週末となると流石に「やませみ」の駐車場は満杯である。集合は飯能駅に850分であったが、そちらはサブリーダーのYさんにお任せして937に到着するバスを待つ。もし予定通り少人数ならば、バス停でメンバーをピックアップして落合の「有間渓谷観光釣り場」まで行ってしまうつもりであったからだ。参加者は自分を含めて5名ということだったので、9人乗りの乗用車では全く問題はない。だが、参加者の皆さんから「どうせ来たのだから歩きたい」との声があり、湖畔を歩いてまずは落合へと向かうことになった。途中、カヌー工房手前で古参会員のS氏が車で待っていた。S氏は今回の大淵清掃にあたり、事前に市役所に連絡して掃除後のゴミの処理などについて折衝してくれていたのだ。これで参加者は6名。現地まで歩くと伝えるとS氏は一足先に大淵に向かうといって車を走らせた。さわらびの湯バス停から落合まではおよそ1時間で、有間渓谷観光釣り場には1050に到着した。当初はゴミが出た場合に、この観光釣り場に置かせていただくことになっていたので、係の人たちに声を掛けがてら挨拶をする。大淵はここから林道有馬線を辿って20分ほどの距離である。

渓流沿いに林道を歩いて20分ほどの場所に、「竜神淵」と書かれた指標がある。但し、今の時期は雑草が繁茂しているので道は藪の中に埋もれている。つまり、大淵を掃除する前にまずは歩く道の草刈りから始めなければならない。そしてこの作業の為の「鋸鎌」であったのだが、ペラペラのノコギリ鎌は川辺に到着する頃には刃がクシャクシャになっていた。そして川辺にシートを敷いてそこをベースとしてザックを置く。Yさんにはノコギリ、カマなどを用意しておくよう連絡したが、一般の参加者の方には軍手とゴミ袋しか伝えていない。大淵には10本近くの倒木や太い流木が集まり、龍神宮脇の木も川に倒れ込んでいる状態だった。勿論、岩に洗われていたりまだ葉っぱがついていたりと様々だ。もし仮に龍神様がこの淵にいたならば、こんな状態にはしておかないだろうと思われた。それからは愛用のノコギリを持ち出して、流木を手当たり次第に切り刻む。なかでも厄介だったのは淵の中心部に倒れ込んだ枝ぶりの良い桜の木で、枝の高さ7-8m、幹回り25cmが沈んでいる。こればかりは水に浸かって伐らなければどうにもならない。幸いにして沢装備であったので腰までなら何でもないが、大淵の核心部へ行くと足が川底の砂礫にズズッと吸い込まれそうになる。神山弘氏の記述によると、砂防ダム工事の作業員が悪ふざけで発破を投げ込んだら暴風雨になったとあるので、本来ならば大淵に入ることだって生きた心地はしないのだ。

昼食休憩をしたのは1240で凡そ30分ほど。自分は流木となった丸太をひたすらノコギリで寸断していたが、他の参加者の皆さんも細かく枝を落として纏める作業や、空き缶を拾うなどして作業に没頭し、すべて終了したのは1540のことだった。用意した土嚢にゴミやら落ち葉を詰めると7袋分で、S氏によると路傍に置いておいても、後で市役所に連絡すれば引き取りに来てくれるとのこと。(後日、場所がわからずS氏に何度も確認の電話があったそうだが、大淵は旧名栗村なので無理もない)当初は一人で作業することも考えたが、やはり会員の皆さんにも参加していただいて良かったと思う。普段の山歩きとはまた違った体験をして皆さん喜んでいた。一人でやったら2日間はかかっただろうし、おかげで大淵も神秘的な雰囲気を取り戻すことができたようだ。その後はS氏に「さわらびの湯」まで送っていただき、残ったメンバーでひと風呂浴びた。さわらびの湯の週末は大変に混雑していたが、参加者は皆、心地よい充実感に溢れていた。
参加者の皆さんお疲れ様でした。そしてどうも有難う。

10年ほど前に書いた雨乞い龍神紀行は、若干手直しして「峠の道標・編」としました。下記に掲載しましたので、有馬の大淵に興味のある方はご一読ください。

2016年6月30日木曜日

日和田山カメラ山行・5/31


金毘羅神社鳥居前に設置された展望図台
下段左:北向地蔵(岩舟地蔵) 下段右:五常の滝

1997以来 画像サイズを決めていたものの、通信速度が速くなった現在ではやはり小さい。
なので、今回から600×450pixで掲載。

来年度、大改訂を控えている昭文社のエリアマップ『奥武蔵・秩父』。先日、日和田山に取材に出かけたものの、如何せん天気に恵まれず写真の画像が暗くなってしまったことは否めない。マップに付録する小冊子も来年度版から写真が増えるということで、メイン画像だけではなく新たに分岐点の写真が加わるわけだが、明るい写真のほうがやはり良いに決まっている。勿論、すでにPCに保存してある画像もあるのだが、コース上の道標なども新しくなっているし、再度撮影するにしても天気の良い日を待つしかないだろう。この日、朝方は曇り空であったが、10時頃から晴れるとみて車で関越道をひた走る。小冊子に推奨コースとして収録予定の日和田山・物見山のコースは、北向地蔵を経由して関ノ入林道から五常の滝を経て武蔵横手駅にでるので、電車を1駅利用するつもりなら巾着田に駐車すれば良い。巾着田駐車場は一日停めて500円で、都内の駐車事情からすると格安にも思える。そして駐車場から高麗本郷の交差点にでてコンビニに立ち寄り、まずは日和田山の登山口へと向かう。じつのところ、日和田山登山口にも民間の駐車場300円があるのだが、ピストン山行ならともかく、電車利用の周遊コースとするなら巾着田駐車場のほうが便利なのだ。

そうして1000に駐車場をスタートしたのだが、今回は行程時間もそうとう当てにならない。(いつもかも知れないが…)というのも、この季節は天気が良いと、日和田山は近所の保育園から始まって県内の小中学生が次々と野外研修に訪れる。平日だからと高をくくっていたら子供たちが順次登って来て写真を撮るどころではなかった。まず金毘羅神社の大鳥居を潜って男坂へと向かうと路傍に滝不動の祀られた水場がある。すでに滝の体裁は保たれていないように思うが、『登山地図帳23・奥武蔵』(昭21)坂倉登紀子著に「清浄の滝」とあるのがこれだろう。男坂を登り始めると上の方でもガヤガヤと子供たちの声がする。金毘羅神社の広前は子供たちで溢れていたが、こうなると風景写真も彼等がいなくなる合間を見計らって撮影しなければならない。神社前の岩場で引率する先生の「皆さん、頑張って男坂を登ってきたので、ご褒美にこの景色の良いところで休憩にします」という台詞に言葉を失うが、先生はもちろん間違ってはいない。むしろ先生にしてみれば、小学生たちの中で憮然としている大男のほうが怪しい存在なのだろう。しかも後方から登ってきた別の学校の生徒まで行き交うものだから、金毘羅神社から巾着田を撮影するのに1時間。さらに日和田山山頂に到着して宝篋印塔から日高市を望む風景を撮影する頃には、時刻も1200過ぎとなっていた。

日和田山を辞した後は静かな山歩きとなった。自然遊歩道となる尾根道は、注意深く見てみると旧道とは少しずれている箇所もある。恐らく道が拡幅された際に直線的になったものだが、つい石仏や道標の一つもないかと藪の中を覗いてしまう。そして使われなくなった高指山のNHK電波塔を横目に見て駒高集落へ出る。少し余談になるが、陽山亭のある黒山の地名は高座ス(タカザス)で高い所にある耕地という意味なのだが、高指山の場合は地名ではなく山名なので同じ意味とは限らない。だが、古代寺院の遺跡でもあることから、(高山不動の伝説もある)往昔より人々の営みが連綿と続けられてきたことは確かだろう。駒高集落は本コースでは見せ場といっても良い展望もある。ただし、昭和の時代に設置された展望台は流石に老朽化した感があり、隣接する公衆トイレも古く、女性の場合は利用をためらうだろう。その先の「ふじみ屋」も年中オープンしているわけではないので、休憩ポイントの改善を望みたいところ。ハイカーはかまわず先を急ぐが、安州寺周辺の風情はなかなかに良い。とくに現在は物見山からの眺望が殆んどないので、一休みするなら駒高集落の方で休憩することをお薦めする。

旧道を行くのであれば、駒高集落から小瀬名集落へと繋ぐ立岩坂を行けば良く、わざわざ物見山を経由する必要もないのだが、駒高集落の辻に建立された石仏から察するに、物見山を経て宿谷集落へ向かう道も古くからあったのであろう。山頂近くの路傍には七柱が鎮座するお社があるのだが、祀られているのは七社様なのだろうか?ともあれ、ここを過ぎればすぐに「物見山」の標柱のある山頂に至るが、前述のようにすでに眺望はなく、西武球場ドームがわずかに顔をのぞかせているに過ぎない。時刻は1300となっていたが少し休憩しただけで北向地蔵へと向かう。物見山から宿谷への分岐、いわゆるヤセオネ峠はすぐである。わざわざ峠を冠する必要もないと思うが、ハイカーはそれでは済まないものらしい。まだ展望のあった頃には四阿も設けられたが、現在は朽ちてテーブルとベンチだけが残っている。しかしそれを利用する者もいないだろう。鎌北湖と同じように宿谷の滝も寂れてしまい、近頃では宿谷の滝を経由して登ってくるハイカーもあまり見かけないからだ。因みに、前述の『登山地図帳23・奥武蔵』では(ヤセオネ峠なる名称はまだ用いられていない)、宿谷の滝から高麗神社、そして聖天院から高麗駅へのコースを紹介している。

ヤセオネ峠を過ぎると立岩周辺の木々が伐採されて少しだけ明るくなっていた。そして小瀬名集落にある茶店の廃屋をやり過ごし、林道権現堂線を跨いで北向地蔵へと向かう。北向地蔵(岩舟地蔵)の上のちょっとしたピークには丸太ベンチがあるので、ここで20分ほど休憩するが、とくに眺望があるわけでもない。一般に北向地蔵という名称は、日本三大地蔵の栃木県高勝寺の岩舟地蔵に対して正面するからとされている。しかし、寺社仏閣が南向きであるのに対して北を向いていることから、奇をてらった石仏としてそう名付けられたもののように思う。また天明六年(1786)に建立されていることから、天明の大飢饉と結びつける者も多い。だが、そもそも「岩舟地蔵尊念仏供養塔」と刻まれているのだから、岩舟地蔵への信仰よって極楽浄土へ行くための念仏供養であり、そのモニュメント的な石仏である可能性が高い。岩舟地蔵信仰は天明より前の享保四年から十年(1719-25)にかけて関東地方で爆発的に流行した踊り念仏である。近隣においても天明の大飢饉や浅間山の大噴火による天変地異で石仏などを建立したという例はないが、飯能市には享保年間(1716-36)に岩舟地蔵が建立された例が精明地区にある。大乗の教えはともに彼岸(悟りの世界)に渡ることであるから、極楽浄土へ渡ることを具現化させた岩舟地蔵が、北を向いて南の山並みを背景としていても違和感はないはずだ。由来などに拘るよりも、むしろ背後の山並みを一望できるように望みたい。

この北向地蔵には覆屋がありお堂のようになっているものの、毛呂山町権現堂地区の三堂とは権現堂の観音堂と中野の薬師堂、それに土山の地蔵堂をいう。このうち、権現堂発祥の地に近いのが観音堂であるが、戦後すぐの不審火により焼失して今はない。北向地蔵からユガテ集落に向かう道をとって歩くと、程なくして土山集落とユガテ集落の分岐となる。そしてこの分岐を南に向かえばすぐに土山の愛宕地蔵尊のお堂がある。以前は土山集会所とともにあったそうだが、お堂のみが再建されて現在に至っているという。すでにこの集落にも眺望はなく、お堂の下の道路に設置された真新しい道標に従ってさらに下る。すると再び林道土山線とぶつかるので、未舗装の道を五常の滝方面へと向かえば良い。やがて林道中野線と道を交えるが、将軍標の指導標は日高市観光協会のものである。つまり、五常の滝の切通しまでは毛呂山町に属しているというわけなのだ。ここでは五常の滝についても何度か説明しているが、武蔵野合戦の際に高麗一族が滝に打たれてから戦いに臨んだとされており、五常は儒教で説く五つの徳目である仁・義・礼・智・信を指す。が、勘違いをしてはならないのは、ここでいう高麗一族とは丹党秩父基房の子・五郎経家が高麗郡に来住して高麗氏を名乗り、さらに後裔が分かれて加治氏や中山氏となる一族のことである。

したがって飛鳥時代の高麗王若光とはつながるはずもないので、儒教の徳目を持ち出すには些か無理があるのかも知れない。『新編風土記稿』は横手村の旧家者として山口氏を挙げていて、かつては小田原北条家に仕えていたと記している。五常の滝からは関の入沢に沿って進み、丸木橋を渡って林道に戻る。あとは林道関ノ入線を歩いて行けば国道299号線へとぶつかり、国道の向こうには西武線の駅舎が見えるだろう。そうして、一通りお浚いをしながらカメラを片手に散策し、武蔵横手駅に到着したのが1530のことで、16時前には再び巾着田駐車場へと戻った。小冊子の写真要件は明るくコースのハイライトとなる場所の画像と五常の滝。しかし車で来たついでに聖天院と高麗神社に立ち寄って写真撮影。現在のデジカメは画素数も大きく、以前撮影した画像と比較しても新たに撮影したものの方が良い。今までは記録的に撮影することが多かったが、カメラ好きの会員さんがベストショットを追い求める苦労が少しだけ分かった気がした。

梅雨時期というわけでもないが、この6月はついに奥武蔵に出かけることができず、自宅近くでのランニングを専らとしていた。本当なら堂平山の籠岩が湿っているところでヒカリゴケを確かめたいところだが、一人の気軽さからか日程調整も適当で延期ばかりしている。ところで、今週末は有馬の大渕を清掃する予定なので、できれば龍神様の霊威を感得できればと思う。今回は報告がだいぶ遅れてしまったが、今後もマイペースの更新となりますのでご容赦を。