2016年3月28日月曜日

龍ヶ谷巨石巡り・1/20


 【ヒグラシ岩(5.10b~5.12c)】

 下段左:岩下 下段右:林道梅本線花ノ木平(ガードレールまで雪に埋もれていました)

先日、Uさんと龍ヶ谷に出かけた時のこと、沿道に設けられた「龍ヶ谷地域活性化推進の会」による「巨石街道」と記された指標を見た。件の「夫婦岩」は山中 奥深くにあるはずなので、この林道梅本線沿道には該当しないものの、巨石街道がどんなものか興味を惹くものに違いなく、ふと散策気分で歩いてみるのも良い かも知れないと思い立つ。この日、毛呂山町に小用があり、それを済ませてから11:40に龍穏寺へと到着した。当該の「龍ヶ谷地域活性化推進の会」が各所 に設置した説明板は「下馬門跡」から始まっている。下馬門から「清流小道」と呼ばれる旧道、清流橋(補修された木橋)を渡ったら龍ヶ谷大橋の袂に建立され た宝筐印塔を見る。「龍ヶ谷地域推進の会」の説明は詳しく丁寧だ。例えば入口の観音像には《六臂観音塔(ろっぴかんのんとう)-この観音等は龍穩寺五十七 世文山闡明(ぶんさんせんみょう)大和尚の時代・嘉永二年(一八四九年)春、世話人宮崎利右衛門を中心とした龍穏寺の檀家で建立した石塔である。塔身には 「万人造之」の文字が彫られ、宝篋印塔礎西面にも同様な彫刻があり、対を成している。これは「万人これを造る」の意味である。最上部の菩薩像には手が六本 ある。上の手は右に利剣、左に錫杖を持ち中の手は右手に珠玉、左に宝珠を持つ。下の手は胸の前で観音院を結んでいる。(嘉永二年=葛飾北斎が享年八十九最 で死去した歳) 平成二十六年4月吉日》といった具合。

境内には山門の所に「三つ文化財」、その隣には「龍ヶ谷熊野神社」。そして本堂の 前には「心の池」、「魚鼓」、「龍神伝説」の説明板がそれぞれ設置されてあった。本堂ではご本尊に参拝してわずかばかり喜捨もさせていただいたが、駐車場 を使わせていただいているので当然だろう。その後、龍窟へと向かうが、「巨石街道」の指標には「シシ岩~岩下」までと付記されている。「岩下」は梅本集落 への登り口で、旧秩父街道の要所であった所だ。そしてそれは小澤さんが言っていた夫婦岩へと続く道の入口でもある。気が急くところではあるが、まずここは 説明板に沿って歩いてみよう。シシ岩には古い注連縄が回されているので、古くから信仰対象であったことは間違いないだろう。その次が「龍尾の滝」と「龍頭 の滝」で、この龍ヶ谷川(龍穏寺川)が地名の由来となっていることを示している。そしてその龍の頭を押さえる位置に建立されているのが「滝不動」なのだ。 その奥には男滝が流れ落ちていて、夕刻の頃、龍穏寺前ご住職の卓苗氏がここで滝行をしているのを何度か見かけたことがある。そこから先は岩の名も何だか怪 しくなってきて、「ワニ岩」、「恋人岩」と続く。

従来「乞食岩」とされてきた岩には「鳴岩」とあり、説明として《大正年間の鳴沢の崩れに よって情報から転がってきた巨大石で、川の瀬音が反響して音が発していることがあったので「鳴岩」と呼ばれている》と記されている。一般に乞食岩と呼ばれ る岩は雨露を凌げる岩をいうので、名称としてはこちらが正しいように思う。或いはこの先にある「岩下」と混同しているのかも知れない。そして「女滝」の次 の指標板が「ゴリラ岩」。これには笑ってしまったが、確かに巨大なゴリラの頭にも見えなくもない。やがて「大槌岩」を過ぎると、この「巨石街道」も「岩 下」で終わりとなる。この「岩下」は《その昔、この街道は秩父、吾野への交通の要所として利用され、この大きな岩「岩下」は雨や風を防ぎ、ときには野宿に 利用されたといわれている》と記されている様に、大岩に庇状の張り出しがある。ただし、「岩下」は地名に類似する通称で、岩の名称ではないように思う。さ て、こうして巨石街道の散策は終わったものの、林道梅本線をさらに進んだ場所には仏岩や障子岩があるはずだ。前述のとおり、この岩下を登って行けば小字夫 婦岩に至るはずなので、ヒグラシ岩まで行けば上の秩父街道へと至るはずだ。時間もまだ十分にあるので、飯盛山の手前から引き返してみるのも悪くない。

と はいうものの、散策のつもりで来たのでミドルブーツに6本爪軽アイゼンという軽装備。だが結局、多少の不安よりも夫婦岩に出会えるかも知れないという誘惑 が勝ってしまった。少し登ると秩父街道は二岐するが、梅本集落に続いているのが本通りで、谷津を進んで行くのは木出し道である。小澤さんは林業に精通する 人なので、夫婦岩はこの谷津の先にあるはずだ。しかし、この作業道もやがて西の方に向きを変える。そのまま行くと小字比羅となってしまうので、このまま進 んではまずいとばかりに隣の尾根に取りついた。夫婦岩が見つからなくてもヒグラシ岩へは確実に辿り着けるとみたからだ。積雪は15cmほどであったが、前 爪がないのが辛いところ。それでも急斜面を登りあげると、思った通りヒグラシ岩の正面に出た。この尾根にないのであれば、夫婦岩はさらに東の尾根にあるこ とになる。ヒグラシ岩はフリークライマーの間では「龍穏寺の岩場」と呼ばれ、クライミングスクールを運営する勝井武志さんから、「あそこへはグレードの格 付けをしに行った」と聞いた憶えがある。勿論、このゲレンデが開発される以前からその存在を知ってはいたが、下から見上げるのは今回が初めてのことであっ た。

秩父街道と一概に言っても古道に固有名詞の概念はなく、目的地に向かっていれさえすれば呼称自体が道標の役目を果たす。したがって麦 原入口から戸神集落を経て尾根通しに飯盛峠に向かう道も、龍穏寺から梅本集落を経て花ノ木平で合流する道も、どちらも秩父街道には違いないのだ。因みに秩 父から越生に来る同じ道を越生街道と云い、往来が頻繁な場合は秩父往還と呼ぶこともある。仮にこのヒグラシ岩の傍らを通る道を「尾根通り」とし、龍穏寺の 道を「寺通り」とすると、この二つは飯盛峠手前の花ノ木平で合流する。なので、このヒグラシ岩からニノホリキリを経て暫くすると林道梅本線へと至るので、 帰路は飯盛峠の手前で「寺通り」を戻ってくれば良い。と、少々安易に考えていた。しかし、林道梅本線は吹き曝されて、積雪は30㎝を超えている。仕方なく 野末張展望台からはひたすらラッセルして進むしかない。モナカ状になった雪が、足をズブズブと20cmほどめり込せる。午前中に誰かが付けたスノーシュー の踏み跡がいかにも楽しそうだが、勿論こちらはそれどころではなかった。時刻はすでに15:00を過ぎ、飯盛山を包む黒雲は小雪まで吐き出す始末。軽装備 がたたり悪戦苦闘しながらガードレール下に「寺通り」を見つけるや否や、雪が腰にまでまとわりつく斜面をシリセード。何とか旧道に辿り着くことができた。

そ こから先はいくつか分岐があるものの、勝手知ったる道であるのは云うまでもない。山中のこととて雪もさほど深くなく、それでも時折り雪に足を取られながら 「障子岩」の前を走る林道に出た。ここまで来れば積雪も10cm程度でさしたる難所もないはずだ。「障子岩名水」には誰かが水を汲みに来た踏み跡さえも 残っていた。(ひょっとすると旧山猫軒のAさんかも…)この林道もやがて林道梅本線に合流し、町指定天然記念物「龍ヶ谷のヤマザクラ」入口に「仏岩」があ る。そそり立つ巨石が仏様に似ていることからこの名があるそうだ。そして梅本集落へ続く道を過ぎれば「岩下」まではわけもない。沿道に設置された指標は 「熊穴のマンガン坑」と「石積み堰」のみ。ただし、小字熊穴は関八州見晴台直下の谷津にあたり、とくに林道から眺められるわけではない。(わざわざ見に行 く人もいないだろうが)こうして龍ヶ谷を一巡してみたが、梅本集落や戸神集落には立ち寄っていないので、恐らくそちらにも「百観音霊場巡拝塔」や、「山枝 庵」、「代官屋敷」等の説明板が設置されているかも知れない。それらはまたの機会に訪れてみる事にしよう。

ところで件の夫婦岩だが、帰宅後に1975当時の航空写真を見てみると、ヒグラシ岩東のツル(支尾根)、標高480m付近に白い点が二つ並んでいた。今回は全てにおいて準備不足だったようである。


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