2016年11月11日金曜日

秩父三十二番観音札所から釜ノ沢五峰・10/27



【荒波超えて彼岸へと漕ぎ出す般若船】
下段左:釜ノ沢五峰・三ノ峰
下段右:今回お世話になった長若山荘さん。(小鹿野町バイクタウンも今は懐かしいね)

昭文社エリアマップの調査をお願いしているYさんから、長若山荘のご主人にお話をお伺いしに行くので同行してほしいとの連絡があった。日程的にはタイミングも良いし、そもそも「秩父三十二番札所・法性寺の奥ノ院と釜ノ沢五峰のルートは繋げられないものだろうか」と言いだしたのは自分である。それに秩父観音霊場巡りのクライマックスであると思っている三十二番札所の法性寺へは、機会があれば何度でも訪れてみても良い。ただし、以前に訪れた頃とは違い、小鹿野町営バスも路線が大幅に縮小されていた。三十二番札所まで延びていた路線も今年から廃止されているようだが、事前に調べてみると長若交差点から法性寺までは1時間ほどなので、巡礼者になったつもりで歩けば良い。(巡礼の順路とは逆になってしまうが…)池袋から650発レッドアローで西武秩父駅に向かいYさんと合流してから820発の薬師の湯行き小鹿野町営バスに乗る。そして30分ほどバスに揺られ長若中学校前バス停にて下車。バスを捨てた後は平坦な道を、朝の空気を吸いながら三十二番札所を目指して歩いて行った。好天に恵まれ空はどこまでも青い。

長若山荘への分岐を見送って進んで行くと右手に秩父大神社のお社がある。もとは歓喜天を祭っていた為、聖天社と称していたそうだが、神仏分離の際に秩父神社の祭神を勧請した。とはいえ、もとは秩父神社も神仏習合時代には「秩父大宮妙見宮」として妙見菩薩を祀っていたので、現在の祭神は天之御中主神とするのが適当であろう。歓喜天は、もとはヒンドゥー経に登場する象頭人身の暴神で、聖観音が同じ象頭人身に変身して抱擁することで歓喜を与えた後、仏教の守護神として帰依させたとされる。この歓喜天は象頭人身が抱擁する立像だが、男女抱擁の姿で刻まれていることもあり秘仏とされることも多い。いずれにしても、この秩父大神社の脇には「秩父札所三十二番法性寺」とあるので、法性寺山門は目前である。従ってかつての聖天社も霊場の境内社とみても良いだろう。当然ながら三十二番の本尊が正観音(聖観音)であることは云うまでもない。そこで『新編武蔵風土記稿』般若村項を紐解いてみると、「○聖天社 神職吉田家配下神田伊豫下同じ」と記されていた。(蛇足だが長若地区はかつての長留村と般若村が合併してできた合成地名)

法性寺山門には一般に云うところの般若の能面が掲げられているが、これは語呂合わせの如く近代になって奉納されたものであろう。江戸時代へのタイムスリップ感を得ようとするならば、ここでさらに『新編武蔵風土記稿』を読み込まなければならない。

○三十二番観音 秩父三十四番札所の内なり。小名柿久保にあり。堂は南向き方四間。本尊正観音木立像六尺二寸、行基の作なり。是を般若堂と云い即ち扁額を掲ぐ。此の山も又、行基創建の古霊場なり。往古、異僧此の堂に来たって大般若経若干を一夜にして書写して所在を失いぬれば、奇異の思いをなして太守に告げしに、「経は永く寺宝となすべし。般若の守護には十六善神を祭るべし」と遂に造営せられ、是より此の地を般若と云えるよし。堂も爾が云われとなり事は、円通伝にみえたり。
山の形勢、奥ノ院に至り巌船に似たり。仍って石船山とよべり。事績、円通伝に委しければ茲に粗よその勝概を挙げるに、山はもとより一石山にて峨々たる磐岩、高く聳えて険しく天狗山、羅漢山など云える岩山あり。仁王門は東向きに立てり。是より石燈を登ること三級にして九十三段を経て別当法性寺に至る。寺後、磐岩に刻みをなして結構頗る牢し。後ろより危岩の高さ十余丈なるが擁壓せり。そこに又洞窟あり。高さ二丈五六尺、深さ三間半、幅七間許り、その中に千体地蔵堂あり。堂の右に一ッ岩ありて艮向きの洞穴あり。穴口幅一丈、高さ五尺、即ち洞門に似たり。腰を折りていくこと二間許りにして出づ。
これより南向きして上がるに、又、険岩に金鎖を下して縋りて登り、或いは梯子を繋げて攀じ上り、或いは岩に刻みをなして上り、少しの平あり。そこに又岩窟あり。深さ八九尺、高さ五尺、幅十間。其の中に木蓮及び十三体の石仏を安ず。また、同じく険阻を登り遂に頂きに至る。観音堂より茲に至る凡そ四町と云い、是れ岩船山なり。船に似て南北に亘り百八間余り、幅五間余り。北を舳(へさき)として南を艫(とも)となす。北に正観音の金仏露座するあり。南に大日の金仏のあり、長さ五尺の座像なり、是れを奥ノ院とす。即ち岩窟に安ぜり、この所には高さ三丈許りなる岩ありて、北向きに洞窟あり、その深さ七尺、幅六尺、高さ七尺余りに及べり。此の辺り、景趣いとすぐれて郡中にも、亦この境のごとく寺絶えたるは比なし。
参詣の徒、札堂の後ろに下れば又、巨石対峙して洞門の如くなるあり。皆、身を潜めてその中間を出づ。巡礼の詠歌に曰く、「願わくば般若の船にのりて得ん いかなる罪も浮かぶとぞきく」

○別当法性寺 石船山と号す。曹洞宗にて久長村天徳寺末なり。境内除地五畝。本尊薬師木座像、長さ一尺六寸。前立に日光、月光、二菩薩あり。其の外、千手観音、船観音、地蔵等あり。開山眼応、貞永元年に化す。月日しれず、中興開山宗祭、宝永五年九月十一日入寂。
○仁王門 東向き、二間に三間半。左右に仁王の木立像二身を置く。長さ六尺三寸。
○地蔵堂 これを千体地蔵堂と云う。金仏の座像、長さ三尺五寸なるあり。其の余、千体は木立像なり。
○札堂 巡礼の札を納むる所なり。中に釈迦安ぜり。
○奥院 岩船の岩窟に大日の金仏を安ず。座像にて長さ五尺。
○羅漢山 羅漢岩とも云い一円の盤岩にて高く聳えたり。
○天狗山 天狗岩とも云い羅漢岩に続いて同じく高岩対峙し、往々に松茂りて寥々たる岑寂の絶境なり。寺層の物語りに、此の山に住まえる天狗は、大阪落城の時に手伝いせし老物にて、時々いたづらをなし故に船丸天狗坊大権現と祭りしより境内安穏なりと云う。

読みやすくする為に若干送り仮名を加えているが、勿論読み飛ばしていただいて結構である。十六善神とは法性寺とともにかつて般若堂近くにあった大般若十六善神社の祭神で、別当(管理)の経王山般若院が聖護院末の修験であったことから明治期の修験道廃止令によって還俗したものと思われる。また「円通伝」とは、正しくは『秩父三十四所観音霊験円通伝』と云い、江戸期の延享元年(1744)に発行された秩父観音霊場の縁起を纏めた書である。そして、さらに『新編武蔵風土記稿』には般若院の寺宝として「大般若経二巻」が挙げられており、「弘法大師真蹟と伝うれども信用しがたし。円通伝に云う。北条氏東国を領するとき希代の霊宝とて居城に采り納め、法性寺に僅か六巻を残し止められると云う。城中にありしは落城の時、灰燼となるらんとあれば、斯かる般若も其の数の内なるものにや」とある。

大般若経とは、「西遊記」のモデルとなった玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義を集大成した『大般若波羅蜜多経』という経典の略称で、全十六部六百巻から成る膨大な経典で構成されている。そもそも般若とはパンニャーの漢訳音写で悟りを表す智慧のことで、大乗仏教の特質を意味している。つまり地名や寺号ともなっている般若の由来と、鬼女の能面とは何ら関係がないというわけなのだ。別当の法性寺は鎌倉期の貞永元年(1232)に眼応玄察が開山したとされ、奥ノ院に大日如来が祀られていることから、古くは密教系寺院であったとされている。また、「円通伝」の縁起に「豊島郡の住人、豊島権守が娘を同郡に嫁がせた…」と云う件があるが、時代背景としてはなるほどと思わせる。室町後期に豊島一族は太田道灌によって滅ぼされてしまうからである。江戸期に曹洞宗寺院として体裁を整えたのは中興開山とされる宗祭で、宝永五年(1708)に示寂している。

さて、いつもの様に前置きが長くなってしまったが、法性寺前のトイレで少し休憩した後、鐘楼門と呼ばれる山門を潜って本堂へと向かう。別当法性寺からは奥ノ院とされる岩船の舳先に立つ観音像が見える。そしてさらに奥に進んだ右手の懸崖に、般若堂(観音堂)が建立されている。本尊は正観音で船頭よろしく笠をかぶり両手に櫂を携えていることから、お船観音と呼ばれる由縁ともなっているのだ。また、般若堂の後ろ側には侵食によってできた太古の岩窟があり、蜂の巣状に風化している。そこには地蔵尊の祀られた御堂もあるのだが、風土記稿の記述にある「千体地蔵堂」とは違うのだろうか。何故なら「其の余、千体は木立像なり」とあるからである。そして「洞門」を潜ってさらに奥へと進むと、右手に天狗岩と羅漢岩が聳えている。岩に階段状に刻まれた道は胎内観音と呼ばれる龍虎石に差しかかり、尚も進むと目蓮尊者と十三仏の祀られた岩窟の辻に出る。十三仏は秩父観音霊場成立に関わる性空上人をはじめとした十三賢者かも知れない。いずれにしても、『新編武蔵風土記稿』三十二番観音堂之図からすると、いつの間にか岩船(図には般若船と記載されている)に乗船していることになる。十三仏の祀られている場所は、即ち般若船の船内を顕すと見た。

秩父は太古に海だった…とは信じられないかも知れないが、三十一番札所観音院で荒波に浸食された砂岩礫層の崖に刻まれた摩崖仏を目の当たりにして来たばかりの巡礼者たちには、最早そこがかつて海だったということを疑う者はいなかったはずだ。十三仏の祀られた辻からさらに進むと、突如として荒波を山並みに代えて進む岩船の上に立つ。大乗仏教の特質を見事に示現させた般若船の舳に立ち、彼岸(悟りの世界)への船頭を努めるのは正観音である。但し、残念ながら記事には「北に正観音の金仏露座するあり」とあるので、江戸期のものでないのは明らかである。向きも現在のものとは違うだろう。悟りの世界は三十四番結願所の水潜寺、即ち正面に見える遥か城峯山そして破風山の向こう側にあるからなのだ。それに残念ながら現代の仏師には、座して笠をかぶり櫂を携える観音様の御姿といったイメージは湧かないであろう。そして甲板を行くように岩船を緩やかに登っていくと大日如来と釜ノ沢への分岐へと至る。そして鉄鎖を頼りに7-8m這い上がるようにして行くと、艫にあたる部分に大日如来の座像が祭られている。120kmに及ぶ秩父観音霊場巡りの旅は、ここに至って極楽浄土への想いも絶頂に達したはずだ。勿論、巡礼者たちはここより先に進むことはなく、身を潜ながら洞門のような道を般若堂へ降り次の札所へと向かうのである。

道標に従って尾根伝いに登って行くと、すぐに柿ノ久保集落と釜ノ沢集落の分岐となる。地形図にある破線は恐らく間違いで、この分岐は地図上では478m三角点手前の、頭上に高圧線の走る場所にある。昭文社エリアマップでもこの分岐から亀岳を経て長若山荘へ向かうルートを紹介しているのだが、この尾根から釜ノ沢五峰へ足を伸ばせるか確認するのが今回の山行目的でもあった。実際には地形図に破線がある為か、踏み跡もかなりしっかりしているようだ。但し、植林帯を抜けて三角点のあるピークへ向かうには、伐採地の常で荊棘がやたらと繁茂しているので無暗に痛い。それでも三角点のあるピークは眺望も良く、小休止しながら談笑する。時刻は寄り道を繰り返していても1130。長若山荘へはあまり早く到着してもかえって迷惑となってしまうからだ。荊棘に辟易したか流石のYさんも「戻りましょうか」と云い出すが、伐採地を抜けて植林帯に入ってしまえば荊棘の類も姿を消す。そして再び伐採された540m付近のピークに至るが、こちらはまだ作業されたばかりで荊棘は無かった。加えてかなり良好な展望台で得した気分だ。奥秩父方向は両神山に奇峰二子山、その隣には白岩山。振り返れば釜ノ沢五峰の奥に熊倉山が望める。そして、そこからわずかに進むと釡ノ沢五峰と文殊峠、金精神社の分岐となる独標565mへと至る。時刻は1200で、たいした登りでもないのでコース設定も可能だが、やはり途中の荊棘が繁茂する箇所がいただけない。それに先ほどの好展望台も一年後には荊棘だらけにならないとも限らない。なので、しばらく様子を見たほうが良さそうだ。

釜ノ沢五峰は長若山荘さんの地所で、それぞれの峰の頂上に順に「○ノ峰」と刻まれた石標がある。その突き出た峰は岩峰で鎖を使って登るのだが、安全な巻き道を通ることも可能である。じつはこのコースは長若山荘さんによって定期的に整備されているコースなのだ。ところで、四ノ峰で岩峰に熊の爪痕が残されていた。今朝乗ったバスの中で「昨日、釡ノ沢で熊が出た」との話は耳にしていた。熊も冬眠前で活発に行動しているらしい。その爪痕は三ノ峰のクヌギの木の下でも確認できたが、にわかに動く黒いものに気づいて一瞬ギクリとする。しかしそれは猿の群れで、ボス猿がしきりにこちらを警戒している。目を合わさずに群れが通り過ぎるのを待ち、少し急な三ノ峰へと登ると明るく開けた感じで眺望も良い。この場所を別名・兵重岩と呼ぶのだそうだが、「昔、兵重という男がいて博打でイカサマをしたので、この岩から転ばした」という話があるそうだ。勿論これは長若山荘のご主人からの受け売りである。そして二ノ峰、一ノ峰と降って行くが、一ノ峰を過ぎた辺りの標高400m付近で尾根からルートが逸れるので、踏み跡を辿るとあらぬ所へ降ってしまう。登って行くには問題無いが、降ってくる際には注意したい。

ここまで来ればもう長若山荘の裏山なのだが、亀ヶ岳の方向へ少し登った所に「雨乞い岩洞穴」がある。現地に行くと小さな祠と背後の大岩には洞穴があるが、洞穴そのものは殆んど埋まっているような感じであった。気になるのは祠のほうで、神道式のようにみえるものの中には仏の立像が祭られていた。白波の上に立つ御姿なので、お船観音とも関係がありそうだが、残念なことにせっかく長若山荘のご主人に教えていただいた名を失念してしまった。長若山荘に到着したのは1420であったが、それからご主人との会話が弾み一時間ばかり話し込む。ご主人は90歳を超えているそうだが、じつに聡明な人であった。外人さんのお客さんが多いのも、剣道場や弓道場を経営していることもあるが、ご主人をはじめご家族の人柄に引かれてのことだろう。例えば、長若山荘から龍神山538.6三角点に向かう途中、兎岩の先に「賽の洞窟」という岩窟があると聞く。そこで「そこはバクチ穴ですよね」と訊ねると「ああ、サイコロを転がしていたから賽の洞窟っていうんだいね」とニッコリ。隣で目を丸くして聞いていたのはYさんで「賽の河原とか神秘的な名前なのかと思った」とのこと。こんな感じで話は止め処も続いてしまったが、そう長くお邪魔するわけも行かないし、帰りのバスの時刻のこともある。Yさんが釜ノ沢五ルート上の現状と改善点を書き出したマップをご主人にお渡しして民宿・長若山荘を辞した。

帰路は今朝来た道を戻ったが、落合橋を渡った所で地蔵堂に目が留まる。いや、正確には「地蔵堂の脇の摩滅した石仏は何か?」とYさんに問われたので、「馬頭観音と庚申塔でしょう」と答えると、それを聞いていた家のご婦人に話し掛けられる。当然ながらこんな道草は大好物だ。今回は4時のバスを逃すとかなり遅くなるということで長若中学校前バス停に戻ることとしたが、桜株の石仏の建立された分岐を左に進めば江戸巡礼道となる。そして西武バスの松井田バス停まで行けば、手前の宮本の湯で日帰り入浴も可能なのだ。すでにこのルートは2017年版にて反映させる予定でいる。西武秩父駅へ向かう長若中学校前バス停は停留所こそ無いが、長若駐在所の前で待っていれば拾ってくれる。その駐在所に到着したのは1558のことであった。

地図調査に加えYさんにはお世話になりっぱなしで申し訳ありません。今回もお付き合いどうも有り難うございました。

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