2016年9月13日火曜日

「白昼の北斗星」に「棒の折」を探る・9/9



【名坂峠道・泣き坂の升ヶ滝】
下段左:大丹波川の畔でキャンプ場を営む百軒茶屋
下段右:棒ノ嶺、大丹波側にある祠の祭神は山ノ神様にあらずして石神様なり。

前回予告した通り、今回は宮内敏雄氏の記述にある金精様を探してみようと、またもや東青梅駅から上成木行バスに乗り込んだ。同じバスには高水山へ向かうグループ一組が乗り合わせていたが、終点の上成木バス停の二つ前の高土戸バス停にて下車する。前回、車窓から見た「高水山一ノ鳥居跡」に立ち寄って行くためである。また、天照大神を祀る上成木神社に寄ってみたいという気持ちもあった。その名からして、かつての村社であったことは自明である。そして大指バス停を過ぎ前回スタートした上成木バス停へ。「高水山常福院龍学寺 表参道」の石柱を起点として名坂峠へと向かうことにした。石柱に刻まれた麓の龍学寺は寺号であり、高水山浪切不動尊の別当寺であろう。ちょうど近くに土地のご老人がいたので伺うと、「高水山参道入口」の石柱が往昔の浪切不動尊への入口で、現在は一部荒れているものの、前回見た林道先の鳥居まで繋がっているとのことである。そして、昔は門前にも商店があったそうだ。お爺さんに御礼を述べて別れた後、路傍に建立された寛政十二年(1800)の出羽三山百観音霊場巡拝塔を見る。例によって道標を兼ねるもので、「右 子のごんげん・ちゝぶ 江」と刻まれてあった。云うまでもなく橋を渡ったその先は、小沢峠へと続いているのは勿論である。また一方には「西 甲州・日原道」と刻まれている。西は極指集落を経由して名坂峠に向かう道であり、往来も頻繁であったことが分かる。名坂峠への入口あたる極指集落には、それを物語るように多くの石仏が路傍に祭られていた。

集落奥の名坂峠入口には、先に見たものより小さい出羽三山百観音霊場巡拝塔が建立されていた。そして浄水場脇から山道に入り、暫く歩くと沢の分岐に丸木橋が掛けられている。橋は粗末なシロモノだが、橋台の石積みはかなり立派であった。貧弱な丸木には乗らずに下を渡ると第二の丸木橋が現れるが、こちらの石積みもかなり堅牢に造られている。その先には山葵田跡の石積みがあるが、まさかワサビの為だけに造られたものとも思えない。途中には桟道の痕跡もあるが、当然ながら全て朽ち落ちていた。どうも浪切不動尊への裏参道のようにも思えるが、やがて衝立の様な滝の前で行き止まりとなってしまった。滝上にも道が繋がっていることも考えられるが、これ以上進むのも道草が過ぎると思い引き返す。果して、この滝の正体が何であるかは見当もつかない。が、一方の惣岳山には青渭神社があり、山頂近くには真名井(青渭の井)と呼ばれる霊泉がある。従って高水三山と呼称されているように、岩茸石山にも水に関する宗教的アジール空間があったも不思議ではないのだ。伝承の通り、三山を綿密に探索すれば確かに四十八の滝があるのかも知れない。いずれにしても、まだ時間が早いこともあり思わぬ道草をしてしまったので先を急ぐことにしよう。元の道に戻り、道が険しくなってくると鉄橋が架けられていて、これをやり過ごすと升ヶ滝の滝上に出る。明るい渓流が美しいが、一歩間違えれば滝に転落してしまう恐れがある為、周辺にはロープが張り巡らされていた。

升ヶ滝は上成木バス停の案内板に記載されていて、滝見の為の散策道も整備されている。その指標に従って散策道を進むと遠目に見ても立派な二段の滝が望める。高さは12mで、中ほどに2m四方の升形をした釜があることから名付けられたという。生憎と滝壺まで降りることはできないものの、対岸の眺めの良い場所までは周回できる。但し往復で30分以上のロスは見込んでおいたほうが良いだろう。升ヶ滝を過ぎると路傍にも目立つ巨岩が多くなり、籠岩と書かれた標示板がある。籠には見えない岩だが本来は加護岩だったのかも知れない。そしてさらに先に進むと、畠山重忠が切り下げたという伝説のある切石があり、確かに岩には直線的な亀裂があった。この切石を過ぎると沢も細くなってしまうが、峠道も落葉樹に囲まれて岩を被う苔も良い感じだ。そして沢から離れ植林の中をつづら折りに坂を登って行くと名坂峠へと至る。升ヶ滝周辺の悪場を考えると、駄馬たちの往来は到底無理だったのでないかと思う。この名坂峠までの道が泣き坂とも云われる所以でもある。前回見た通り、この峠から岩茸石山山頂は一投足なので、山頂で昼食休憩とした。流石に寄り道ばかりをし過ぎせいか、すでに時刻は12:10となっていた。

宮内敏雄氏の著書『奥多摩の沢歩き』(15)から「成木川」の項を引用してみよう。《成木川-池袋で武電に乗り飯能からバスに乗れば、名栗川の清流に沿って幾度か屈折を繰返し小沢に着く。バスを降りて清々しい流れを渡り滝ノ入沿いに登る四〇九米のケバ峠と言勿れ、これでも国境尾根の名を持って居るのである。『武蔵通志』を見ると[改行]小沢嶺 上成木上分ノ西ニアリ、字滝上ヨリ登リ四町四十三間ニシテ頂ニ至リ名栗村ニ達ス、牛馬ヲ通ズベシ。里伝云昔成木川ヲ以テ郡界トナス後村人協議シテ此ノ嶺上ヲ以テ郡界ト定ム。云々[改行]となり、峠を踰すと、東京府側はカラリと明るく洵に気分の好い降りで人家や山畑の前を過ぎて大沢入の部落を洗う成木川の滸りに立つ。[改行]大沢入は静かな部落で、賞でる人もいない季の花が雛に点々と可憐である。左に高水登山路を見送って極指の部落に入る。[改行]此処から大丹波部落へ抜ける名坂峠は一に泣ッ坂と謂われる一寸した急坂で小一時間の登りが続く。[改行]峠に立てば九三二米の岩茸石山までほんの一投足である。この山を大丹波では鷹ノ巣山と呼んでいるのである。そろそろ賑やかになって来た尾根筋を、馬仏山一つに向イ山という突起の東を搦むともう惣岳山である》小沢峠の項には牛馬も通行できると記されているが、極指集落の外れに唯一建立されていた馬頭観音が少し気になる。

さて名坂峠に戻り大丹波を目指して降って行くが、植林の中を行く単調な道で中程に峠道の面影を若干残すが、すでに生活道の役割を終えていると云って良いだろう。しかも出口付近では新たな林道の開削が進められていて重機が騒音を撒き散らして働いている。この林道は八桑バス停で都道202号線と道を合わすが、そこには「左ハ山に  右ハちゝぶに」と刻まれた古い自然石の道標が建立されていた。つまり小沢峠入口の出羽三山百観音霊場巡拝塔(道標)に従うと、名坂峠を越えた日原・甲州道はこの八桑近くの北川橋を渡り、さらに川井から青梅街道へと繋がるというわけなのだ。一方、棒ノ嶺への登山口は大丹波の奥へと進む。昔の山大尽だろうか、豪気な屋敷を仰ぎながら歩いていると、後ろからバスが追い越して行く。が、もう終点の清東橋バス停まではわけない距離だ。そこからさらに登って行くと百軒茶屋があり、店の横に設置された自販機前で小休止。棒ノ嶺(大丹波側の表記は棒ノ折山)を登るにあたって水の確保と補給を済ませる。すると百軒茶屋のおばさんが心配顔を覗かせた。時刻も14:30を回っているので、これから棒ノ嶺に登るとなるとギリギリだからだ。良い機会なのでお話を伺わせていただくと、中茶屋と奥茶屋は元々の地名で、百軒茶屋は屋号だそうだ。何でも明治の頃のお爺さんが、庄屋さんから百間ほど離れていたことから名付けたらしいが、百軒に掛けているところが明治人らしくて風流だと思う。ところで、山間部でいう茶屋とは茶店のことではなく、茶の栽培を生業とする農家をいう。おばさんの話では、今は植林されているが、キャンプ場を始めるまでは殆んどの土地が茶畑だったという。そして、その茶を名栗へ売りに行く為に棒ノ折山を越えたのだそうだ。そしてそれを確める為にも、是が非でも棒ノ嶺へと登ってみたくなった。

 さて、おばさんが棒ノ嶺ではなく棒ノ折山が正しいとする山名についてだが、まずは『ハイキング』27(9)-田中新平氏の記述を見てみよう。《(前略)此処で棒ノ折と棒ノ嶺とに付いて書き加えて置くが、棒ノ折と棒ノ嶺とは全然異なったものであって、棒ノ折とは一節の石を言うのであり、棒ノ嶺とは其の山の名前である。人に依って此の山を棒ノ折山と言う人もあるが、此の場合頂上にも書いてある如く土地の人にしたがって、棒ノ嶺は棒ノ峯と呼ぶのが正しいと思う。[改行]四辺にはワサビ畑が沢山あって、其の畑の中に割合に立派な道が付いている。三十分も登ると伝説の棒ノ折の前に出る。此の石は昔畠山重忠が杖について此処まで来ると(恐らく名栗から奥多摩にでも来る途中であろう)、ポッキリと折れて仕まったのだそうである。然し畠山重忠がどの位力があったかは知れないが、直径五寸もある石の杖がつける訳のものではない。それに畠山重忠と言えば相当に古い人であるので、其の石が本当に当時のものであったならば、もう少し苔蒸していなければならないのに、石には苔なぞは少しも付いていなかったのは不思議である。傍らに『棒の折』と書いた立札が立っていて、別に棒ノ峯への指導標も立っていた。[改行]棒ノ折より道は急激な登りとなり、桧や杉の樹木の間を縫って行けば間もなく、気持ちの良いカヤトの尾根に出る。そして棒ノ峯の頂上に着こうとする少し手前で道が左右に岐れていて、其処に『右、名栗へ。左、山道』と書いた道標を見る。右の道は権次入峠に至るのであって、左の山道への道を辿ればナゴーノ丸(九五八・四M)を経て火打石谷ノ頭(一四三0M)、鹽地谷ノ頭、ソバツブ山(一四七ニ・九M)、仙元峠などの山へ行くのであろうが、その道が何処まで付いているかは疑問である。其の道標から頂上への道は殆んど付いていないがかまわずカヤトの急峻を十分も登れば、其処は広々とした棒ノ峯の頂きである。樹木なぞは一本も生えていないカヤトの其頂上からの眺望は実に素晴らしいものであった。(後略)》

この山名考に関してはその後に発表された宮内敏雄氏『奥多摩』(昭19)の論が正鵠を射ていると思うので引用する。《さて棒ノ折山であるが、この山を名栗側では坊ノ尾根と呼んでいるのである。 之は昔からこの山が有名なカヤトの山だったからで、往時は河又附近の農家は、家屋の屋根の萱ブキを採るために、毎年此処を火入れしてカヤトを生い繁らせたものだそうである。現に名栗川流域を歩いていても、時々前衛の雑木の山の彼方にこの山の狐色のドームを懐かしく仰がれるのだが、これを坊主山の意味で坊の尾根との表現は如何にも簡明な表現だと思う。[改行]特に山頂を尾根と呼ぶのは変なようだが、このように呼ぶ例は珍しくなく、「多摩郡村誌」を一寸披いても、頭窓山を指ノ尾根、三田窪山を丹三郎平ノ尾根、布滝ノ峰を三道尾根などと幾つも此の附近にあるのである。[改行]次に坊ノ尾根が文書に書いて棒ノ尾根となった例は、これまた語音がおなじだからで、「甲斐国誌」巻ノ二十六山川部を見ると「坊ノ峰或ハ棒ケ峰ニ作ル」と八代郡御坂山塊の山に見えるし、箱根火山群中駒ケ嶽の棒みち、また御嶽山北方の中ノ棒山の如く、漢字の悪戯が目に訴える好個の例であろう。[改行]再び大丹波側から考えてみると、石棒を俚人は棒ノ折山として祀って、今では本来の意義は忘れているが、あきらかにこれは金精様で、それを崇拝した名残りが今日まで惰性で伝わり、「あの棒ノ折様が」の位置を示す言葉がその祀ってある場所を指すようになり、それが名栗側の坊ノ尾根と混乱混同して、棒ノ折山の名が山を距てた双方の部落で同一名で呼ばれるほどになったのであろう》。

以前に山名は先に名付けた方が優先すると書いたが、実際に二つの地域にまたがる場合には、どちらの山名が先かなどとと立証することは不可能だ。これが租税対象となる地名であれば確定させなければならないだろうが、多くの場合は稜線を境界としているので、まったく交流のない二つの地域にまたがった山であれば其々の山名があっても可笑しくない。むしろ統一させようとする方に無理があると云える。この棒ノ嶺の場合は、字こそ違えているが名栗と大丹波で昔から交流があったからこそ同音異字の山名になっているのだ。さてさて、時間も押してきたので百軒茶屋のおばさんに別れを告げて先を急ぐことにしよう。棒ノ嶺へは公衆トイレの所から大丹波川を渡って山葵田の脇を登って行く。清流沿いの山葵田は現在も管理されているが、放置されている箇所を含めるとかなりの面積となるだろう。これだけの山葵田の石積みを構築するには何十年もの歳月が必要だったはずで、世襲によって山葵田を守ってきたのではないだろうか。その山葵田を管理する為か清流に架かるキッチリとした桟道を辿って若干開けた場所に出るとそこに小さな祠を目にする。前回引用した宮内氏の記述によると、石神様(金精様)はこの周辺に転がっているはずだ。が、よく目を凝らして祠を見れば、石神様が中に鎮座しているではないか。宮内氏はさらに武田博士の考察を引用しつつ《ゴンジリ沢滸の石棒を、山頂で平素愛用の石棒が折れたので一端は名栗の谷へ、一端を此処へ捨てたのを祀る。 その棒の高さ一尺一寸、上端の周囲八寸、下端の周囲六寸を算する―とその写真を添えて考証されてある》と記しているので、サイズ的にも間違いはない。恐らく転がっている石神様を見るに忍びず、土地の人が祠へ納めたのであろう。

石神様は縄文後期の遺物で両端が丸められた円柱の石造物であり、男性の陽物と似ていることから金精様として崇められている地域も多い。悠久の太古から信仰されてきたものには違いはないが、山ノ神様などではけしてなく地図などに見る表記は訂正されて然るべきだろう。とはいえ、もはや消失していても不思議ではないと思っていただけに、土地の人の篤い信仰心を改めて垣間見ることとなった。石神様の祠からは単調な登りで、暫く登ると露岩帯が現れる。そして、その先をつづら折りに登れば棒ノ嶺山頂へと至る。すると大丹波側の麓で暮らす人々は、権次入峠を経ずに山頂へと直登していたのかということになるが、前出『ハイキング』誌を読む限りそんなはずがあるわけない。逆に山頂を経ずに権次入り峠から名栗へと降ったはずである。さらに飯能の町を目指すなら岩茸石を経て滝ノ平尾根を降って河又へ向かい、さらに仁田山峠を行けば原市場まで近道できる。いや、何度も峠を越えたくなければ、やはり湯基入の道を降って名栗川橋の字市場を目指したはずだ。前述の宮内氏の著書『奥多摩の沢歩き』から「権次入沢」の項を引用してみよう。《権次入沢-岩根常太郎兄をして「白昼の北斗星!」と賛仰せしめた棒ノ折山のあのやわらかなカヤトのドームを繞ってつけられた幾多の径の一つに大丹波から名栗に抜ける古めかしい権次入峠径がある。[改行]大丹波川の探勝道路を権次入河原まで来たら対岸に渡り植林の中を沢辺に出る。[改行]山葵田の沢を搦んで行く静かな小径。[改行]水暗く日の舞う谷や呼子鳥[改行]呼子鳥こそ啼かねど、洵に秩父越えの古道にふさわしい清々しい渓間である。[改行]やがて左側にその昔、秩父ノ庄司畠山重忠が所用で急遽鎌倉に馳せ参ずる際、権次入峠の辺で平素愛用してるステッキが折れたので一端を此所へ、他の一端を名栗ノ谷に投げ捨てた―その化石したのが是だと伝わってるのであるが、重忠如何に膂力衆に秀れりともまさか周八寸の杖は持てまい。惟うに、金精峠と同様なものではあるまいか。[改行]棒は明らかに人工のもので、平な石の上にあり高サ一尺一寸、上端の周囲八寸下端の周囲六寸を算し、年代その他の文字は何も刻してない。[改行]ジグザグに急坂を登りつめて、茅戸の南を捲けば権次入峠だ。[改行]目交いに美しい棒ノ折山(坊ノ尾根 地図の棒ノ嶺とあるのは誤)の昂りが、秋ならば白銀の波美しきカアベットを繰布げている》

「白昼の北斗星」は、岩根常太郎氏の著書『奥多摩渓谷』(昭18)に《全山茅戸のあの特色的な山膚のいろ、秋から冬にかけ焦茶に焼け、あの山姿を吾々は近隣から南岸から、近くの高み、北のなか空に探し求めぬことゝてない。私にとってあの山はひそかに「白昼の北斗星」なのだ》と文中に用いられたフレーズである。それはさておき、やはり権次入沢からの旧道は、山頂を巻いて権次入峠に直接向かっていたのは間違いない。登山者にとっては登山の対象に過ぎないが、生活する者にとって山は越えるものである。だが今では山頂を経由しなければ権次入峠に行くことは出来ない。云うまでもなく、生活の為に峠越えをする者が皆無になってしまったからである。こうして調べてみると、戦前には大丹波から直接棒ノ折山山頂へ続く登山道は無かったようだ。しかし、戦後発行された『奥多摩の山と谷』(34)には《(前略)いつしか部落をぬけ対岸に真名井沢出合を見ると清東橋を渡り右に百軒茶屋を見る頼めばお茶の接待をしてくれる。その先で導標にしたがい右の小径をおり、大丹波川にかかる丸木橋を渡る。杉の植林中をジグザグに登ると径はやがてゴンジリ沢に沿って行くようになる。あたりは一面のワサビ田である、右へ小径を分ち本流はその先で五米位の小滝を落している。大丹波青年団の建てた導標のそばに例の有名な石棒は金精さま(男根)と祀ったと云われている。これより上には水場がないので水の補給を忘れない事だ。ここで径は左にまがり杉の植林中を急登する。棒ノ折山中腹の巻径を横切れば程なく棒ノ折山頂である。展望の良いのは今更云うまでもない。(後略)》と記されていて、すでに峠道の他に山頂へと続く道も付いていたようだ。ともあれ、文中の「頼めばお茶の接待をしてくれる…」との記述から察するに、百軒茶屋ではまだ茶店としては営業されていなかったようである。また、今回残念なことに大丹波青年団の道標は遂に見つけることが出来なかった。

山頂には16:20に到着していたが、物思いに耽っている場合ではなかった。いくら何でもボヤボヤしていたら日が暮れてしまうからだ。山頂を辞して尚も権次入峠南斜面に旧道の痕跡がないかと探してみるが見つからない。仕方なく足早に岩茸石へと降って行く。岩茸石の分岐には「トウギリ林道」とあるが、漢字にすると湯基入である。今まで通った事がなかったのは、地図上に見る長い舗装路を嫌って足が自然と河又方面に向いてしまっていたからだ。だが、実際には道中に展望こそないものの、それほど悪いものでもなかった。岩茸石から湯基入方面に降るとまず林道大名栗線を跨ぐことになる。そして山中に入ると再び林道と道を合わせる。今度は舗装路を行くしかないが、林道のヘアピンカーブに背を向けた熊野神社の御社があるので、正面に回り込めば参道となり名栗温泉大松閣へと続く旧道となる。奥武蔵では良く見る林道敷設のパターンだ。そして舗装路と再び道が重なるのは大松閣近くなので、 楞厳寺の山門を横目に見てバイパスをやり過ごし、名栗川橋を渡れば目前にバス停がある。時計を確認すると18:10で、一息する間もなくバスは数分後にやって来た。

山頂が草原ではなくなってしまった棒ノ嶺は、周囲の山々に比して目立つこともなく最早「白昼の北斗星」との賛辞には値しないかも知れない。岩根常太郎氏や宮内敏雄氏がこの山を紹介してから70年以上の時を経ているので仕方ないだろう。だが、彼等の名が忘れ去られてしまっても、棒ノ嶺は人々を惹きつけてやまずに今日も多くの登山者たちが訪れている。


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