2016年8月30日火曜日

高水山常福院から棒ノ嶺・8/26

【岩茸石山から逆川ノ丸と黒山、そして棒ノ嶺と権次入峠を望む】
下段左:不動堂下の湧水(かつての御手洗のはずだが、霊水として感得できるか否かは貴方しだい) 
下段右:不動堂裏覆屋の石仏で、中央の倶利伽羅龍王は不動尊の眷属
     ( もともと上記の水場に祀られていたはずで、近在の例として挙げられるのは南高麗の間野浅間神社の倶利伽羅不動)

昭文社・山と高原地図22『奥武蔵・秩父』2017版は大改訂の予定で、小冊子も大幅に改訂される。もちろん写真も新しくなるはずだが、近頃は木々が伸びてしまい棒ノ嶺を遠望できる場所も限られてきてしまった。名栗湖畔は棒ノ嶺と権次入峠が確認できるものの、前衛の山々が高く見えてしまうし、楢抜山や仁田山峠などは展望が開けているかどうかも分からない。ならば奥多摩側からはどうかというと、岩茸石山からだと眺望が頗る良いらしい。雨が多い今夏だが台風の接近する合間を見計らいながら、高水山から棒ノ嶺まで写真撮影を兼ねて縦走してみることにした。高水山への登山コースはJR青梅線軍畑駅から高源寺を経て1時間30分ほどである。しかし今回は、東青梅駅から都バスに乗り、終点の上成木バス停から高水山常福院を目指すことにする。成木街道(都道53号線)は青梅と名栗を結ぶ道で、上成木から小沢峠を越すと県道70号線にぶつかり、かつての下名栗村となる。したがって、どの登山口から登っても旧参道には違いないのだろうが、まず上成木側から登る道が高水山への本参道と睨んだわけだ。

東青梅駅から成木街道を走るバスは、北小曽木に寄り道した後、815頃に上成木バス停に到着した。すでに車窓から1kmほど手前の沿道に、高水山常福院の一の鳥居跡があったことを確認している。バス停にはハイキングコースの略図が掲示され、傍らにバイオトイレが設置されていて登山者には嬉しい限りだ。バス停から道標に従って「なちゃぎり林道」に入る。程なくして車道を離れ、高水山への鳥居を潜って参道に入る。ここでいう高水山は山号で、常福院が院号ということになろう。鳥居があることからしても、現在も修験寺の形態を色濃く残しているといえるだろう。この高水山と岩茸石山、それに惣岳山の三峰を古くから高水三山と称するが、そのいずれもが修験たちの修行の場であり霊域だったのであろう。宮内敏雄氏は『奥多摩』(昭19)の中で当時の縁起を紹介しているが、その記述によると、《この高水山の山名由来は「高水山縁起」を見ると「…山頂は古木森々として又平地あり、回りに四ヶ所の瀑布あり所謂白糸ノ瀧・五段ノ瀧・精進ノ瀧・舛ヶ瀧是なり、後世細に探りて四十八瀑布と称す。夫如此高山にして如此流水あり高水山と名のるのも宜なり…」とあるが、現在はこの由来のような瀑布はないようだ。》とのことである。が、これ等の滝も、今では青梅市の滝を紹介する各書に掲載されている。

一方、同じ頃に山と渓谷社から出版された田島勝太郎氏の著書に『奥多摩』がある。どちらもその後の奥多摩研究の礎ともなった本なので、読み比べてみると面白い。こちらの本には《高水山 又岩茸石山から東に分かれた支脈は高水山を起す。不動堂がある。「武蔵名勝圖會」に依れば本尊不動明王、木立像長サ二尺許。智證大師作浪切不動尊と号す剣を逆手に持給ふ尊像なり》とあり。中略。又同書に「山の名を高水山と号する事は、山中に五重の瀧あり。又山上に御手洗池などあるゆえ、高水山と称するなり。中略。五重瀧。鳥居より十町許登りて、右の方なる谷間にあり。高サは六間余にして五段に飛流する故名付也。 とあるが、私はまだ五重瀧はまだ一見しない。又頂上御手洗池などは今日見るべくもないと思う。当山の宝物に常盤御前の鏡などあると云うが、前述常盤ノ前山(※注後述)などから思い付いたものか。頂上の平地にお堂に庫裏があって、参詣も相当に多い。山脈はこれから東南に走って、雷電山となり、小曽木村に至って低い丘陵となってしまう。」と記している。この二書をもって高水山については説明できてしまいそうだが、それはともかく先に進もう。参道は旧道の趣がありとても良い雰囲気だが、ともに登っていく電柱と電線が無粋だが仕方ない。そして林道を跨いで階段を登っていくと道が緩やかになり、そこから降れば五重瀧に向かうことができる。現在は五段の滝と呼ばれているが、かつて髙水山不動尊に参詣する行者たちが、身を清めた滝でとされている。そして頭上に常福院への車道が見えると、そこから清々とした湧水がある。恐らく御手洗にして高水山不動尊を著名ならしめた霊泉であろう。

高水山の開基は智証大師とされていて、畠山重忠もこの浪切不動明王に深く帰依していたという。現在の不動堂は何度か火災を経た後、文政五年(1822)に再建されたもの。幕末とされる黒船来航が嘉永六年(1853)であるから、それより31年前のこととなる。当然、真言系の山伏たちが跋扈していたものと考えられるが、不動堂裏手の平地にはまだまだ余裕があることから、かつては僧房などがあったのかも知れない。また、そこには地蔵尊をはじめとして石仏が覆屋にまとめられているが、往昔には山中に点在していたのだろう。そして、その石仏群にあって一際目立っているのが倶利伽羅不動だ。燃え盛る炎をまとう倶利伽羅龍王が、貪瞋痴の三毒を破る智恵の利剣に絡みついている。三昧耶形でいうところの不動明王を顕す倶利伽羅剣の石像である。それは恐らくかつての御手洗池の辺に祀られていたように思う。不動堂に大きな剣が奉納されているのも、本尊である「浪切白不動」が浪を切る御姿からきているのだ。従って水との関わりが深い不動尊には違いなく、子ノ権現(天台宗)は高山不動尊(真言宗)と高水山不動尊(真言宗)に挟まれていて、大祭で一方が晴れになると、もう一方は必ず雨になるとも云われている。

少し余談となるが、果たしてニホンオオカミと山犬は同じなのだろうか。現在では同種とする説が有力ではあるが、すでに他界した祖母(明治生まれで山梨県昇仙峡の産)の話の中で、常にオオカミと山犬は別ものとして語られていた記憶がある。そもそもオオカミは悪者で山犬は民の味方として登場していた為、山犬が大口真神として祀られていることに違和感を抱いたこともなかったのだ。私の地元は東京ではあるものの、かつて農村であった時の風習が残り、御岳山への信仰も未だに続いている地域なのである。だから毎年、大口真神の御札をもらい受けるが、そこには耳の垂れた山犬の姿が描かれている。ご存知の通り、現存するニホンオオカミの剥製を見ると耳は全てピンと立っていて、そこから大口真神を重ね合わせるには少々無理があるように思う。何故そのような話をしだしたかというと、じつは不動堂に建立された狛犬の姿が、耳の垂れた山犬だからなのだ。逆に大口真神の御札を基に彫刻された可能性があるかも知れないが、文字が刻まれた部分が風化によりほとんど剥落していて年代を特定することはできなかった。秩父では大口真神を御眷属としている神社の殆どが耳の垂れた姿で御札には描かれている。因みに耳の立てたオオカミのような御札は、三峰神社や釜山神社他のほんの僅かに過ぎない。

さて、だいぶ話が長くなって恐縮だが、上成木バス停からを830にスタートして常福院には940着。そして巻き道を行かず尾根道を行くとすぐに高水山山頂に着いた。ほとんど展望もなく平凡な山頂である。そして常福院からの道を合わせて尾根道が続く。この尾根道のプロフィールは生活道に近いもので、それは岩茸石山の手前まで続いていた。惣岳山の青渭神社も高水山の霊域の一つなのであろうが、この山道も高水三山を結ぶ連絡道に違いない。ただし、高水山方向から登る道はハイキング道で少しばかり急である。このショートカット道を登ると惣岳山方向から道を合わせてすぐに793mの山頂へと至る。北方の眺望があり逆川ノ頭、都県境界尾根の黒山、そして権次入峠、棒ノ嶺と目で追い駆けて行く。夏の低い雲が多いが、棒ノ嶺の山容を撮影するには支障はない。前述の田島本『奥多摩』には《郡村誌に従えば、この名称は二俣尾地方の名で、大丹波では障子岩山と云うように記載してあるが、障子岩は同山北面の岩場の名で、今日は一般に岩茸石山で知られている。障子岩等の岸壁に岩茸が生ずるから此名を得たのである。》とある。因みに前述した宮内氏の記述に精進ノ瀧があるのを見た。これが髙水山開基の智證大師が修行したとされる精進ヶ滝で、障子岩にあることから別名「障子ヶ滝」とも呼ばれている。

岩茸石山ではハイカーの姿も見かけたが、名坂峠から先はすれ違うことも全くなかった。皆さん、名坂峠から升が滝を経て上成木バス停に降ったか、或いは大丹波を経て川井駅へと下ってしまったようである。(宮内本には極指方面では大丹波峠というとある)しかし黒山へと続く尾根道は落葉樹が多く雰囲気も明るい。だが、小さなピークのアップダウンを繰り返す山道は、馬道であった痕跡もなく旧道の持つ趣は持ち合わせてはいないようだ。やがて841mの逆川ノ丸を通過する。ここで再び田島本を引用すると《郡村誌に従えば成木村方面では常盤ノ前山と云うとある。常盤御前に関する伝説もあるように聞くが成木村奥に常盤と云う小部落あるに基ずくもので、常盤御前に関係ない事は明らかである。》宮内本の内容もほぼ同じだが、こちらは飯能の常盤御前伝説についても言及している。常盤御前とは源義経の母で、奥武蔵では多峯主山に常盤御前の墓があることになっているのだ。言い忘れたが、先ほどの名坂峠から上成木方面に下ると、道中に畠山重忠が切ったとされる切石もあるようだ。斯様にして一々伝説を訝しがってみても詰まらない。むしろ、そうした歴史上の人物の足跡を繋いでみるのも楽しいのではないだろうか。

都県境界の尾根となる黒山842.3mの別称はコカハヅル山というそうだが、今まで実際にその山名を聞いたことはない。この黒山も落葉樹林が多く、秋になれば落葉して棒ノ嶺と権次入峠が写真に収められるかも知れないが、とても秋頃まで待ってはいられない。また、権次入峠付近にも棒ノ嶺山頂が撮影できるポイントがあったのだが、その場所も現在では植林で囲まれている。杉やヒノキは成長するのも早いのだ。権次入峠から急坂を登って棒ノ嶺山頂に到着したのが1330。ここまでは予定通りであったが、前を歩いていた山ガールのお二人さんが山名標示板の脇で昼食休憩となった為、写真撮影は彼女たちが立ち去るのを待つことになる。だが、後は下山してさわらびの湯にでも立ち寄れば良いだけなので、さほど焦る必要もないだろう。とはいえ、山頂を辞したのは1430のことで、岩茸石から湯基ノ入コースを歩いてみたかったのだが、もう一度名栗ダムから棒ノ嶺山頂を確認したいこともあって白谷沢コースを下って行った。このところ降り続いた雨は白谷沢を増水させていたが、歩くだけならとくに危険な箇所もない。名栗湖畔で写真撮影を繰り返し、さわらびの湯に到着したのは1420のことだった。後はひと風呂浴びてバスの発車時間を待てば良い。

ところで、棒ノ嶺の山名因については何度も紹介しているのだが、宮内本の『奥多摩』に詳しく書かれているのでご一読されたい。ここでは畠山重忠伝説の基になった石神(金精様)についての記述に触れておきたい。少なくとも前述の二書が書かれた時代には折れた石棒も現存していたらしく、宮内氏は位置まで丁寧に記録している。《峠は何の特徴もないが、その展望は遉がに広濶である。西方にドウムを擡げる棒ノ折山までは茫々たる茅戸のうねりを衝いての急登だ。その山頂で更に定評ある眺望を堪能したら南に下降、角石と地図にも記載された岩塊かの所から小尾根を急降下し、植林の中のジグザグが終わって沢辺が近くなると、路傍に重忠の投げ捨てたという石棒を見る。ゴンヂリ沢、漢字で宛てると権次入沢となる水流に附いて下ると、程なく大丹波川の出合となり、みちは磧を渉って右岸の大丹波林道に併さる。》なるほど、ここまで明確に記されていると現地を訪れてみたくなる。次回は上成木バス停から升が滝を経て名坂峠へ。そして大丹波に下り大丹波川を遡って百軒茶屋から石神をさがしつつ棒ノ嶺を目指すというコースはどうだろう。考えただけでもワクワクしてくる。やはりこの二書は奥多摩登山の金字塔といっても過言ではないようだ。

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