2016年8月4日木曜日

白石集落から堂平山・7/29


【定峰峠稜線上より望む笠山(右端は七重峠(籠山のタル)】
下段左:籠岩洞内(ヒカリゴケか?) 下段右:定峰峠道(砂利は不必要)

籠岩のヒカリゴケは梅雨時に確認しよう…そう思いながら7月も末となってしまったが、今年の梅雨は幸いにして長いとはいえ、この日を逃すと次は来年になるかも知れない。早朝530の急行に乗れば、720には白石車庫バス停に到着するだろう。そうして小川町駅から眺めた堂平山と笠山は、どんよりとした厚い雲に覆われている。ヒカリゴケが湿気を好むのならおあつらえ向きの天候である。今回は白石車庫バス停からは篭山のタルへは向かわずに、細山集落を経て白石峠へと向かうルートをとった。ここ数年間は通ったことがなかったからだ。『新編武蔵風土記稿』に掲載されている地名で現在も残されている小字は、細山、丸塚、野土、唐沢、竹花、猪鼻、茗荷沢、経塚、夏内で、山名に関しては笠山、飯盛山、高谷山、ゾンゲ山の順に並んでいる。このうち、飯盛山は剣ヶ峰の別称であることは周知であるが、高谷山とは電波塔のある874m峰か828m峰となるが、注釈に「村の南にあり」とある。つまり「川木沢の頭」となるはずだ。ゾンゲ山は定峰峠と(旧)定峰峠の間にある701m峰のことで、この山名は定峰側でも用いられている。

旧白石村は、東秩父村を貫く県道11号線を南進して不動橋を渡った辺りからをその境域とする。そしてバスは予定通り720分には荻殿橋の袂となる白石バス停へと到着した。笠山参道入口を左に見て進み、七重峠(籠山のタル)への分岐にある馬頭尊を過ぎて槻川源流となる沢沿いをさらに登る。細山はこの馬頭尊の東側上部の山腹に展開する集落だ。さらにその上部には堂平古代寺院の伝承もある。今回は籠穴のヒカリゴケも気になるが、恐らく慈光寺の奥ノ院であったとされる堂平山の古代寺院についても検証を試みるつもりだ。槻川源流へ向の道は白石峠に続く峠道でもある。但し、よほど治水の必要があったらしく、かなりの数の堰堤が建設されて渓流の面影は最早どこにもない。しかしながら、沢を離れると落葉樹の道となるので、わずかな区間だが良い雰囲気となる。ところで、峠の手前に建立された石仏は首から上を消失した地蔵尊と思われるが、両手で宝珠を持つものの錫杖は携えておらず、頭部がないことには今一つ判然としないように思う。

白石峠に到着したのは910で、峠に着く頃には霧も晴れあがっていた。この先は気温もどんどん上昇していくだろう。前夜に12Kmばかりランニングしたばかりであったが、ノンビリと歩いてばかりもいられない。じつは白石峠と七重峠間にはほぼ平行に標高を保って進む未舗装路がある。出来たばかりの頃はオフロードバイクが走っていたが、現在は全面通行止となっている。この道路を管理しているのは東秩父村なので、林道奈田良線と林道荻殿線を結ぶ村道なのか。建設目的がよく分からないまま興味ももたなかったが、堂平古代寺院伝承のある平坦地の上部を走っているので今回初めて歩くことにした。建設されたばかりの頃は見晴らしも良かったはずだが、現在では半分は藪と化しており、好事のハイカーが残した踏み跡が細々と続くのみだ。この道は白石峠の「槻川源流の碑」より端を発するが、しばらく歩くと剣ヶ峰より槻川へと注ぐ小滝があり、水場を求めてやってきた鹿が「ピィ」と一声して走り去って行った。細山集落から100m程標高の高い所には平坦地が広がっており、かつての耕作地ではないかと思われる。また前述の通り、堂平古代寺院の伝承もあり、秩父札所1番の観音様も往古にはこの地に祀られていたものだと云う。

この道は標高650m付近を進み、やがて林道荻殿線にぶつかって10分ほどで七重峠へと達する。今年はもう何回この峠に足を運んだだろう。七重集落方面に下の林道へと降って行くと蕨が大きく葉を伸ばしていた。下の林道を降りて林道から籠岩を見上げてみても、緑に覆い隠されて、そこが岩壁とは思えない。籠穴もしかりで今の季節に場所を特定するのは難しい。そして林道脇にザックをデポして籠穴のところまで登ってみた。岩は湿っているので、乾燥した時期とは違った苔類が繁茂しているようだが、それがヒカリゴケであるかは確認できない。籠穴の洞内にも落ち葉が溜まり、残念なことにかなり埋まってしまっていてあまり暗くないからだ。しかしそれも想定していたことなので、さほど落胆することもない。それより気になるのは、神山弘氏が記録した堂平へと続く《七重―伽藍―篠畝―金苔峠―花溝―堂平》までのルートである。このうち確定している篠畝から先が籠穴の辺りだとすると、金苔とはヒカリゴケのことだった可能性は多分にあると云えそうだ。篠畝付近の林道の傍らには「七重峠休憩所」があり、到着したのが1130。ここから稜線伝いに「星と緑の創造センタ―」(堂平山山頂)へと足を向けることにする。

ときがわ町の設定したトレッキングコースもあるが、距離的には短いので当然ながら稜線を辿った方が時間の短縮になる。但し取りつきが不明瞭なので、林道から見上げた大岩の頭に達するまでは境界杭を目当てにトラバース気味に登る。すると標高700m付近に50坪程の平削地が出現する。そして50m下にも耕作地になりそうな平坦地があった。だが、仮にここを古代寺院(仮に原慈光寺)とすると、先ほど想定した堂平へのルートとは齟齬をきたしてしまう。いや、そもそも今しがた通ってきたばかりの篠畝からの稜線ルートは貧弱すぎる。もし建造物が存在したのならば道の痕跡がなければならない。この堂平山東稜に平坦地があったことは知っていたが、周辺を探索すると材木搬出用道がすぐ近くにあった。前にときがわ町トレッキング道を歩いた時に見かけた分岐に繋がっていることはすぐに分かった。下へと続く道も林道剣ヶ峰線に行き当たるだろう。となれば、伽藍辺りから分岐してこの平坦地に繋がっていたことは容易に想像ができる。しかし、それでもそこが原慈光寺だったとは云い難い。恐らく白石の堂平や釈伝寺と同様の本寺前段の宗教施設だったように思う。言い替えれば七堂伽藍の一つだったのではないだろうか。私は現在「星と緑の創造センター」になっている場所こそ原慈光寺のあった場所ではないかと思っている。

一説には慈光寺の開祖を役ノ行者として山岳修験を意識させるが、台密の関東別院として繁栄するにしたがい本寺を山裾に移転していったのではないだろうか。慈光寺は最盛期に七十五の僧房を擁していた。山岳宗教として始まった頃は、籠岩など修行の場に適していたのだろうが、数多の修行僧が生活の場とするには堂平山では水源が不足する。慈光寺とかつての僧房群の周辺には、現在も七つの井戸が確認できる。恐らく源頼朝の庇護を受けるころには、すでに慈光寺も堂平山から拠点を移していたのであろう。平坦地から堂平山東の稜線は道も急登になるが、防火帯と呼べるほどハッキリしている。だが「星と緑の創造センター」に到着したのは1310で、すぐさま管理棟に出向いて「ガリガリ君」を購入する。そしてここで昼食を済ませて堂平山山頂から剣ヶ峰と繋いで白石峠へと戻る。この時点で1440なので、16時前までには定峰峠へ到着することができるだろう。定峰の「峠の茶屋」で蕎麦をいただきながら、おばちゃんに訪ねたいことは沢山ある。

白石峠から定峰峠までは展望もない道で、七峰縦走ハイキングの為なのか途中に山道に不釣り合いな手摺が続く。鉄道会社に危険だからとまさかクレームをつけたわけでもないだろうが、そうしたことも考えられないことではない。こうしたイベントハイキングを体力バロメーターと勘違いして先を急ぐ中高年がじつに多いからだ。そして予定通り16時前には「峠の茶屋」に到着したものの、出かけてしまっておばちゃんは留守だった。勿論、店に世代の違う女性もいるのだが恐らく私と同年代。おばちゃんは今年で83歳だからかなり昔の話も知っている。じつは白石の吉野沢川にあるという七瀧不動が前から気になっているのだが、坂本だったか上ノ山だったかに同名の不動堂があったように思う。すると七瀧とは旧槻川村にまたがっているのだろうか。一つ解決してもまたその次がある、そして最後にはそれらが繋がっていたりすることも珍しくない。それが奥武蔵、そして秩父だからだ。

定峰峠から白石バス亭へのルートは、かつて「峠の旅人掲示板」にも書いたことがある。だが、それは『陸則図』のルートを文字にしただけで実際に歩いたことはなかった。(恐らく相当の藪だったはずである)ところが、近年になってこの旧道が復活していた。七峰縦走ハイキングの参加者が増え、エスケープルートとして需要が急増した為だろう。ルート的には急こう配を上手に避けた旧道そのものであったが、再生させる際に砂利を敷いてしまったのはいただけない。砂利を敷くと水捌けが良くなるとか草が生えないと思ったら大間違いで、昔の人の履物は草鞋であるし馬だって石コロがあったりしたら脚を痛めてしまう。何よりも旧道の雰囲気が台無しだ。この旧道は白石バス停まで続いているが、途中で県道を何度も渡らねばならず自動車とバイクには十分注意が必要だ。また、音のしない自転車(ロードバイク)にはとくに気を付けるべきだ。そして県道沿いの食堂脇を通るのだが、「通行禁止」の札がかけられているので白石車庫バス停に向かえば良い。無用のトラブルは避けた方が賢明だ。定峰峠から白石車庫バス停までは40分も見ておけば良い。現行の運航時刻は17時台のバスもある。


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