2016年4月22日金曜日

「三つ葉つつじの里」から越上山・4/12


【鼻曲山山頂から望む越上山と雨乞い塚】
下段左:三つ葉つつじの里 下段右:坂尻の道祖神(左ってあるよね)

黒山の柴崎氏が主催する花見会は、大平山役ノ行者の縁日に合わせて毎年412日に行われている。午前中は、やはり柴崎氏が講長を務める越生聖護院門跡講中によって大平山登拝が行われ、午後から柴崎氏宅の庭先で三つ葉ツツジの花見会が開催されるのだ。勿論、庭先といっても「峰ヶ原」と名付けるくらいだから、その敷地は広大で植えられた三つ葉ツツジは六百本を超えている。但し、黒山の気温も今年は例年になく暖かかったので、花の見頃は若干過ぎてしまっていたようだ。平日なので私は花見会だけ参加させていただいたが、少し汗ばむような陽気であった。越生町は5月連休を前にして「ハイキングの町宣言」をする。なので、この花見会に町長や県議の方も出席されていた。

じつはこういった場所は、私としてもかなり貴重な情報収集の場となる。情報の入手元が多いに越したことはないが、こうした場所では2、3人の人が整合性を持たせて証言してくれるので、その精度もおのずと高くなるからだ。場所がピンポイントで判明してしまうことすらある。そしてこの日、話題となったのが「障子岩」。障子岩という名の岩は龍ヶ谷にもあるが、黒山の梅ノ久保の奥入にある障子岩は、かなり垂直に近い岩壁で、人が一人入れるほど幅のあるクラックがあるそうだ。これはちょっと面白い。他には岡房ノ入沢の奥入(おくり)、竪岩の近くにマンガン鉱の試掘抗があって、これが竪坑だけに常時水を湛えているのだが、その縁には何十年も変わらず、いつも履物が揃えて置かれているなどという話もあった。何やらオカルト的なこともあって話はそこで終わってしまったが、実見せずには勿体ないので、いずれ探してみることにする。

そんなことで、地元の人達との語らいの時間はあっという間に過ぎてしまい、1400を過ぎたところで散会となった。じつはその前日、藤本氏から《越上山にイワウチワの群落あり》との情報をいただいていたので、鼻曲山経由で行ってみようと決めていた。三つ葉ツツジの展望台から鼻曲山の北尾根へと向かうが、私有地なので一言断ってから通らせてもらうのは当然だ。そして、殆んど人が通ることのないルートだからか、40cm以上もある牡鹿のツノを拾った。鹿の世界はツノの大きさが全てであるから、威風堂々としたリーダー的存在の大鹿であっても、ツノを落としてしまえば最も格下の立場へと転落する。このツノの主も、現在は下積み生活なのであろうか。ともあれ、そこは三つ葉つつじの里もかなり近く、新芽が鹿たちに荒らされたらと思うと気が気でなかったろうと思う。鼻曲山の北尾根へ登りあげるまでは急な道だが、鹿たちにとってはどうと云う事もないからだ。

鼻曲山への尾根道は比較的緩やかだが、数年前に比べると藪が濃くなっていた。道が不慣れなハイカーは勿論だが、地元の人も普段からあまり立ち入ることがないからだろう。しかし南に向かって進めば山頂直下に出るので、登るだけならさほど難しい山でなく(降る場合は地図読みが完全でないとあらぬ方向に行ってしまうが…)、一本杉峠と桂木峠を結ぶ尾根道も鼻曲山山頂を抜けている。40分ほどで到着した鼻曲山は標高446.2m(国土地理院)ほど山だが、黒山にあってどこから眺めても特徴のある山容をしている。そして一本杉峠に向かって尾根道を歩きながら振り返ると、南東に尾を引くように尾根が曲がっていることがよく分かる。このことから鼻曲山の山名因は端曲り(ハナマガリ)とするのが妥当であろう。一方、かつてこの山域に疫病で亡くなった人を焼く火葬場があったからだとする説もある。だが、そもそも往昔にはそうした場所がどこの村にも一か所は存在していたはずだから、取り立てて鼻が曲がってしまうほど臭う山とする理由にはならないだろう。

東南に尾根道を進むと幕岩の岩稜地帯を過ぎてカイ立場へと至る。滝ノ入と阿諏訪、そして黒山を結ぶ峠だが、カイ立場の通称は奥武蔵研究会ではハイキング黎明期から用いられている。しかし、『新編武蔵風土記稿』滝野入村項に《七曲り峠黒山村の方に行く峠なり。上下とも十八、九町もあり》とあるので、わざわざカイ立場と呼ぶことも無いように思う。カヤ立場では意味が通らず、阿諏訪峠などという手前勝手な峠名をつける輩もいるようだ。ところで、毛呂山郷土史研究会『あゆみ』9号で、杉田鐘治氏は毛呂氏の戦略拠点として、越上山周辺に「主計屋敷」なる場所があったと記している。曰く《応永の頃、越生主計入道広忠という人あり、毛呂禅智ばあさんに、越生郷内の地を数回に渡り、買ってもらっているわけであるが(吾那氏も連座)。ここの主計入道の主計が問題である。越生郷小杉より向かう最上流部に越上山があり、越生郷の物見の地として要地と思われるが、もう一つ重要と思われる場所がある。越上山から直線で1kmの至近点の尾根に、越生郷、吾那郷、高麗郷(権現堂宿谷氏領)と、毛呂郷(阿諏訪)を、境いとする所に、カズエ(主計と考えられる)屋敷跡という場所がある》と。

主計屋敷がどの辺に位置するのか今のところは推定の域を出ないが、或いは一本杉峠周辺になるのかも知れない。林道笹郷線の切通が建設される以前の記述なので、現在とは地形もやや異なるからだ。峠からは林道を跨ぎ再び山道となって約1km、金比羅社手前の切通しが越上山(越辺山)の登山口となる。とはいえ、僅かに標高を上げるに過ぎないが、かつての展望もすでになく、そう度々立ち寄ってみたいと思わせるものはとくにない。越上山は双耳峰らしく別名オケツ山とも云うが、藤本氏のご連絡通り、その鞍部にイワウチワが群生していた。そして金毘羅社に戻り、さらに阿寺諏訪神社へと向かうと、ちょうど参道の桜や三つ葉つつじも満開であった。さて、ここですでに時刻は1530を過ぎている。黒山へ降るならしばらく通っていない龍ヶ渕へ行っても良いが、久しぶりに平九郎茶屋によって饂飩をすすり乍ら、おばちゃんにときがわ町大野集落の昔話を教わることにしよう。おばちゃんはもう85歳になるが、こちらが誘い水を注せば井戸から水が湧き出るように話は尽きない。

帰路は顔振峠から子ノ権現道を下った。(正確に言うと、黒山の坂尻に向かっているので、この表現は正しくない。)薬研堀の旧道はもう何度も重機が入ってしまい、かつては足許にあったはずの通称呪詛地蔵(『山の怪奇・百物語』顔振峠の呪詛地蔵・大護八郎)も、今では目より上の位置になってしまった。お世辞にも旧道の雰囲気を残しているとは云えないが、少し確認したいこともあった。じつのところ、会報『奥武蔵』408号に坂尻(対岸が坂元で坂下橋)の旧道分岐は笹郷に繋がっていなかったと記したのだが、今さらながら橋の袂に建立された道祖神に「子のごんげん道」の刻まれていたことを思い出したのだ。そこには確かに「左」と刻まれていたはずなのだ。するとこの分岐では、右は「じしん坂」になるので、道祖神が建立された時点ではこの橋の袂から現在の林道笹郷線に続く道はなかったことになる。つまり「黒山の略図」の解釈は間違っていなかったのだ。また、ちょうど黒山御嶽神社をお守りしている木材屋さんにあったので、御嶽神社の鎮座している駒ヶ岳について確認してみる。当然だが、答えは「あそこは親父さんの代から駒ヶ嶽と呼んでいる」とのこと。ここでも何度か書いたが、明治期に創建された御嶽神社は龍ヶ谷島田氏、黒山浅見氏、大満藤野氏が勧請したもので、鳥居前の岩壁に祀られている小室氏は川角の人だそうである。くどいようだが、369m三角点があるがゆえに「越生駒ヶ岳」などと称するのは間違いである。

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