2016年4月28日木曜日

小川町古寺から慈光寺参詣路を辿る・4/15


【春の古寺鍾乳洞付近】

下段左:上古寺氷川神社社殿 下段右:比丘尼塚

先日、看護師をしている妹からメールがあり、何やら仕事で息詰まっているとのこと。職業柄、ストレスの溜まることもあるだろうし、それならハイキングにでも出掛けたらどうかと話したところ、それなら一緒に歩こうとなった。とはいうものの、妹は全くの初心者なので、まずは登山靴の選び方から相談…というか、近頃はLINEなんてものがあるので、遠く離れた店舗から次々に商品の写真とプライスを送ってくる始末。結局、手頃な登山靴とソックスを購入し、ザックは使っていない自分のカリマー25を送ることで話がまとまり、当日を迎えた。妹は東松山在住なので、初心者向けとして登れる山としては小川町駅から仙元山とか官ノ倉山などが適当だったかも知れない。が、とりあえずは、小川町駅900集合とだけ伝えておいた。妹の事なので、どうせ山名を伝えたところで調べることなどしないだろう。

当日は早めに家を出て、急行電車に乗って800には小川町駅に着いた。妹には早く到着すると連絡したが、どのみち途中までバスを利用することにしたので、今さら慌てることもない。そんなことで、今回は小川町古寺から慈光寺への参詣路を探索することに決めた。まずは妹と合流して皆谷行のバスに乗り、「パトリアおがわ」にて下車。しかし、松郷峠入口から県道273号線を辿るなら公民館前バス停で下車して大河橋を渡れば良い。逆にパトリアおがわで下車した場合は、矢岸橋を渡って帝松(みかどまつ)に向かえばこの県道に出る。帝松は酒蔵のブランド名で、正式には松岡醸造株式会社と云う。敷地内に販売所があるので立ち寄って吟醸アイスを食べてみたが、吟醸酒の香りがほんのりとして美味しい。そして再び松郷峠に向かって歩き、「埼玉県指定天然記念物 古寺鍾乳洞入口」の碑でまたもや道草をする。古寺鍾乳洞は現在公開されておらず、入口も閉鎖されたままだが、金嶽川と村の鎮守・天満神社といった悪くない里山の風景のコントラストに妹もご満悦の様子。

鍾乳洞入口の碑がある場所はかつての下古寺村と上古寺村の境界となり、十二夜待供養塔などの石造物も並んでいる。「南無阿弥陀仏」と刻まれた石仏は、梵字キリークを奉戴した阿弥陀如来だ。さらに下部には「右 おがわ・左 ちちぶ」と刻まれている。だが、とくに分岐でもない村境の、この道標の果たしていた役割が今一つよく分からない。小川町方面は当然だが、秩父方面を指していると云う事は、天満神社から矢岸橋を渡って腰越村に続く道があったようにも思える。少し余談だが、『秩父日記』の著者・渡邊渉園は秩父横瀬から大野峠に至り、鉢形(城跡)へ行く為にこの道を通っている。そして古寺村で見た炭焼き小屋の様子を書き綴り、併せて矢岸橋付近から眺めた腰越城址と笠山の風景を、今の世に墨絵として遺している。渉園の場合は平村から現在の松郷峠を経て下古寺村に降ってきたものと思われる。そこで『絵図で見る小川町』《下古寺村絵図・明治二年1869》で確認してみると、天満神社から腰越村への旧道は間違いなく存在していたようだ。

古寺橋を過ぎてから「横田商店」の辻で県道273号線を離れ、尚も金嶽川に沿って進む。路傍には昭和初期の道標が佇んでいた。また、県道沿いに再び目をやると「上古寺氷川神社 小川町指定無形文化財エンエンワ」と刻まれた立派な石標柱があったので、今回はこの社にも立ち寄ってみた。集落の小高い所に祀られたかつての村社・氷川神社のエンエンワは、長文となるが境内の案内板を転載させていただくことにする。《氷川神社のエンエンワ―氷川神社は、役小角(役行者)が小祠を建立し武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請したことに始まると伝えられている。御神体は木造神像で、製作時期は室町時代末期を下らない。また、境内からは中世の古瓦が出土し境内の姥神社の御神体は鬼瓦であることから、中世には瓦葺の社殿が建立されていたと考えられる。「オクンチ」といわれる当社の秋祭りでは、「中道廻り」という珍しい行事が行なわれる。先達が全国60余州の一の宮の神々を唱えると氏子が「エンエンワー」と大声で唱和し、供物を空高く投げて宮地に供えながら「中道」と呼ばれる唱道を一周する。八百万を対象とした特徴的な神事であり、この祭りを「エンエンワ(因縁和)」とも呼んでいる。 また、この地域を開発したとされる草分けの18戸の氏神を祀ったと考えられる御末社に、アオキの葉に粳米から作った「シトギ」と赤飯、洗米・塩を入れた小皿、茅の箸を台付きの盆にのせ、地区の子どもが献膳する。…後略》。御末社とは社殿の後ろに鎮座する18体のご神体であろうが、祖霊信仰の影響が強く感じられるものだった。

金嶽川に沿う道に戻り、右手の東王寺をやり過ごして行くと、枝垂れ桜とともに真新しい「土峯山 高福寺」の石標柱が建立されている。堂宇は少し小高い所にあるが、参詣道を行くと季節の花々と六地蔵に迎えられることになる。空は抜けるように青く、長閑な里山の春を満喫しながら境内で暫し休憩。道草ばかりに違いないが、久しぶりに会う妹と積もる話に花を咲かせた。庚申橋はその名の通り、橋の袂に庚申様が祀られている。そして、数軒の民家が並ぶ袈裟掛石から出口橋を渡る。そこには自然石馬頭観音が建立されており、慈光参詣路もいよいよ山中に入って行く。少し進むと左手の岩に寛政十年(1798)の馬頭観音が祀られていた。参詣路は交通量が多く、交易路でもあった証左であろう。その先、道は二岐するが傍らの苔むした道標には「←都幾川村石打場ニ至ル山道」とある。石打場は平地区の小字で湯本谷と呼ばれ江戸期に温泉が湧いていたとも云われている。さて、この道標を慈光寺方面に登る旧道の小字は奈良坂で、掘割道の雰囲気は良いがMTBが通るせいか荒れ気味だ。最近ではMTBを見かけることが少なくなったが、一度破壊されてしまった旧道は二度と元には戻らない。

道はやがて林道赤木慈光線にぶつかるが、道路を跨ぐようにして未舗装の道をさらに進む。ほどなくして庚申塔と墓石が並ぶところが比丘尼塚だ。慈光開山の広恵菩薩の弟子に、幼少より出家した丹仁という者がいた。だが幼い我子に会いたい一心ではるばる慈光寺の麓古寺まで来た生母は、山中に入ろうとはするものの何度も雷雨に遭い、行く手を阻まれて寺に辿り着くことが出来なかった。そこで観音様にすがったところ、尼になれば丹仁に会えると知り黒髪を切って山に登った。そして無事に「丹花の井」で親子の再会は果たしたものの言葉を交わすことはなく、生母は観音堂を参拝した後に山中で斃れてしまう。この丹仁の生母を弔った場所が比丘尼塚で、《丹仁奇縁》として『慈光寺実録』に収録されている。問題は現在の道路をそのまま行くと簡単に慈光寺へと行ってしまう事だろう。比丘尼塚を過ぎると道は分岐にさしかかり、後野集落へ降る道と慈光寺へ道に分かれる。3/11では慈光寺から後野川沿いに降った。《丹仁奇縁》に登場する丹花の井はその旧道沿いの僧房群の傍らに位置する。ならば比丘尼塚と丹花の井を結ぶ線がかつての参詣路とみて良いのではないだろうか。また余談だが、伝教大師が広恵菩薩より授かった独鈷を納めたのが独鈷の井で、丹生明神が鎮護している丹花の井は水の色が赤く甘味があるとされている。

そうして、寄り道ばかりを繰り返して、慈光寺の観音堂に到着したのは1330のことである。じつのところ、もう一人の妹(同行した妹にとっては姉)が最近になって病に冒されてしまい、その恢復祈願をする為の観音堂参詣でもあったのだ。そして本堂にも参詣した後、駐車場の所で軽く昼食休憩。あとは下山のコースを考えれば良いだけとなった。いずれにしろまだ時間が早いので、雲河原集落を経て雷電山に行っても良いだろう。が、妹の事もあるので今回は和田の井から東に向かい、さくら山には寄らずに滝の鼻公園へ出るコースだ。本堂から降っても県道172号線に出るには40分とはかからない。前回も書いたが、公園下バス停のある西平交差点には「ときがわベース・サイクリングサポート」と云う施設ができた。自販機が完備されているので、西平バス停で待つよりは使い勝手が良いかも知れない。結局のところ、バス停に着いたのが151040分以上の待ち時間があったからだ。そして、せせらぎバスセンターから武蔵嵐山駅バスに乗る。

あとは東上線で帰宅の途につくだけだったが、妹がせっかくだからと東松山の「やきとり屋」を案内してくれると云う。松山の焼きとりは説明が不要なほど有名だが、地元の人が通う店は午後5時前にはすでに満席となってしまうらしい。妹が今回ススメてくれたのが「桂馬」というお店で、営業時間は1700-2100と比較的短いが、どこも似たようなものらしい。ともあれ、鱈腹食べてリーズナブルな値段に満足した二人。店を出てから気づいたのだが、肉-ネギ--ネギ-ネギ-肉という配列だから桂馬なのか、ネギマだけに…。

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