2016年5月25日水曜日

堂平山籠岩探索と秩父街道・5/19-20


【堂平山の籠岩岩壁と籠穴】
中段左:星と緑の創造センター・テン場  中段右:陣場平山、大野峠の「上の道 」
下段左:奥武蔵高原スキー場ヒュッテ跡 下段右:高畑集落のお大師(前坂峠)

まず、前回書いたシオジクボについては早々に訂正しておくことにする。精進クボ、障子クボなどの見解を示したが、この場合は埼玉北部の渓谷によく分布する樹木「シオジ」に因む地名と思われる。白岩集落付近の「塩地窪」は通称で、仙岳尾根西側の「志於知久保」と云う地名も、音読みではあるが同じ意味であろう。近隣に同じような地名が付けられる例は珍しくなく、塩地窪の場合は実際に行ってみても植林に囲まれているだけだが、かつて三十三尋の滝周辺ではシオジが多く見られたはずと想像するに難くない。

さて、本題に戻って話を進めよう。今回の山旅は自分が企画した奥武蔵研究会の山行。現在、奥武蔵界隈でテント泊が可能なところは少なく、あってもディキャンプ向けのキャンプ場が殆どだ。数十年前は鎌北湖湖畔にもキャンプ場があり、多くの若者たちの人気を集めていたが、奥武蔵の山々に網の目のように林道が張り巡らされるに至って辺境の趣も消滅した。しかし林業の衰退とは裏腹に、未だに林道は砂防ダムとともに次々と建設され続けている。このところ笠山と堂平山にしばらく通って、籠岩探索に都合がいいことと、ちょっとした縦走気分を味わえるのではないかと計画した次第。堂平山の宿泊施設は、東大天文台観測所から移管された旧都幾川村が整備し、平成17年に「星と緑の創造センター」として開設された。観測所内に宿泊設備がある他、ログハウス、モンゴル式テント4棟、バンガロー1棟。またテントサイトは5区画あり、1区画に2人用テントで5張分のスペースがある。標高850m付近にある為、虫などあまり見かけない。

キャンプサイトは予約制なので、勿論山行のほうも予約制。だが、参加者4名は全員モンゴル式テント希望者で、個人でのテント装備は自分一人となってしまった。したがって、利用料も割高となってしまうが仕方ない。予定していた9時台の白石車庫行バスも4月のダイヤ改正でなくなり、急きょ参加者に連絡して小川町駅に800集合、821発バスに乗って白石へと向かう。バスでは偶然にもPTA時代にお世話になった校長先生と乗り合わせた。先生は橋場で降りて秩父高原牧場のポピーを見に行くとのことだった。白石車庫バス停に到着後、対岸のトイレに立ち寄ってから910にスタート。まず林道白石線を歩き、指標に従って登山道に入る。荷は少々重たいが順調に登って1022には七重峠(籠山のタル)に着く。心地よい風が通る峠から見下ろす風景はまさに初夏の装いで、同じ道を2か月前には雪を踏んで歩いたことが嘘のようである。そして堂平山三角点(867m)には1100に到着して「星と緑の創造センター」にて受付を済ます。但し、チェックインは1400からとのことで、モンゴル式テントでは布団を干しているところであった。

ログハウスに付帯する屋根付き調理場兼食卓テーブルで昼食を済ませた後、キャンプ場の敷地から少し離れた場所にツェルトを張る。本来は参加者の為のビバーグ体験としてYさんが企画したのだが、結局は何通りかの方法でツェルトを張って講習するに止まってしまった。そうこうするうちに時刻は1400となり、モンゴル式テントに荷物をデポできることになった。そして自分のテントを設営した後、サブザックを背負って籠岩の探索に出かける。籠岩から山頂へ向かうルートはすでに踏破しているので、今回は逆のコースで降れば良いわけだ。じつはこの堂平山山頂から籠岩の下の林道に至るルートは、貞享五年(1688)に描かれた腰越村絵図に引かれた線に相当すると考えている。現在は道の痕跡は全く残っていないが、そもそも籠岩上部を抜けるルートでは駄馬は到底通ることが出来ないからだ。また堂平山北東の谷津は切れ込んでいて、徒歩でも籠岩上部を通るよりほかにルートも見出せそうにない。ともあれ、自分は通過したことのあるルートだが、初参加の皆さんには簡易ハーネス装着で注意しながら安全にロープ下降していただいた。さて、件のヒカリゴケの自生する籠穴だが、ここでもう一度復習してみることにしよう。埼玉県の天然記念物「堂平ヒカリゴケ自生地」は、昭和6年(1931)に指定されている。そしてその概要は「堂平山頂近くの東斜面、通称「籠穴」の岩陰に自生。平成10年度の調査では籠穴は見つからず、崩落したものと推察され、周辺の岩陰にヒカリゴケの生育が確認された」とある。

また、内田康男氏『ふるさと腰上』に次の記述がみられる。《堂平山ヒカリゴケ自生地― 堂平山町有林の中にある岩穴にヒカリゴケが自生しています。ヒカリゴケは、岩場の隙間の底部と壁面に生育し、梅雨時などは、外部の光を反射して、鮮葉緑色に輝きます。 この発見が、昭和五年六月六日付けの読売新聞に次のように報じられました(見出しに、笠山とありますが堂平山の誤りです)―笠山の中腹で光苔を発見 全国でも珍しいもの― 比企郡大河村の郡下第一の高山笠山の中腹岩の間に、植物学上最も珍重されている光ごけのあることを、同村前村長小高甚吾氏が、去る三日わらび取りに行って発見したもので、更に県立小川高等女学校植物担当教諭の鑑定の結果、光ごけであることが明らかになったので、同村では同光ごけの保存方を県に申請した(後略) こうして、昭和六年三月三十一日、県指定の天然記念物となりました。》この記述から山菜採りの人が発見したのなら恐らく籠穴は谷筋にあるはずと書いたものの、実際に谷筋を登っていくとルンゼ状となる為、そこから先には岩穴などないはずだ。

それではと、再び林道沿いに籠岩を見上げながら歩いて行くと、参加者の一人、K子さんが「あそこに穴があるみたいだけど?」と、籠岩の一点を指さした。周辺が緑に囲まれていて分かりづらいが岩穴とみて間違いない。林道からは20mほど上の場所となるが、ビレイしていただきながら登ってみるとかなり大きな岩穴である。間口は目測で高さ2.5m、幅3.5mと云ったところ。但し残念なことに、入口から奥行5m先は埋もれているのでヒカリゴケの自生は確認できなかった。今回は参加者全員が簡易ハーネスを装着しているので、安全確保して籠穴を観察した後、懸垂下降して無事に林道へと降りることができた。後日、『小川町史』付図昭和36年(1961)に天然記念物の地図記号と「光蘚」と掲載されているのを見つけ、位置的にも違ないものと確信した。籠岩の規模は高さ100m、幅300mほどだが一枚岩の垂壁ではなく、隆起した露岩が尾根を形成しているといったほうが正しいだろう。また、籠岩と籠穴、そして籠山のタルといった連続する地名からして腰越側の堂平山の呼称は籠山だったと推測される。『慈光寺実録』にみる山名「遠一山」からすると、堂平山は小字の堂平より名付けられたもののように思う。

こうして参加者皆さんのお陰もあって昨年来の課題の一つであった籠穴を見つけることが出来た。堂平山には籠穴の他にも畠山重忠が鐘楼を建立したと云う伝説もある。そもそも堂平と云う地名なのだから慈光寺の奥の院として鐘楼やお堂があっても不思議ではないのだが、前述の『小川町史』付図の上古寺の尾根に畠山重忠の墓があるのを見つけて興味を抱く。まだまだ比企の奥は深い。そうして、籠岩探索を終えて再び七重峠(籠山のタル)を経て天文台へと戻る。数年前までドーム北側は貴重な高原植物が見られた草原だったが、パラグライダー発進所として借り上げられ、芝生が植えられた状態で立入禁止となっている。かつてはこの好展望が人々を引き付けていたが、こればかりは地主さんの意向でもあるから仕方ない。星と緑の創造センターのログハウスはTVや清潔なキッチン、それにトイレ・シャワーまでも完備されている。流石に夕食は外で済ませたが、食後はテーブルを囲んで歓談し、就寝したのは2300を過ぎた頃。自前のテントは自分一人だったが、ランタンを消すと華胥の国、すぐに深い眠りに落ちたのだった。

二日目は5時に起床。もともと夏山縦走の歩荷訓練とかツェルト体験で参加を募ったのだが、快適なモンゴル式テントに泊まるくらいだから、この目論見は外れたと云っても過言ではない。夏山なら早朝スタートと行きたいところだが、8:00チェックアウトをして、堂平山を後にしたのは8:20のことだった。そしてまず向かったのは剣ヶ峰(867m)。もしも堂平山が宗教的な聖地なら、剣ヶ峰は別称の飯盛山からして結界の意味合いを持っている。このことは奥武蔵高原の飯盛山とも連動しているのだが、興味のある方は会報『奥武蔵』にて詳述しているので、お読みいただければ幸いである。電波塔のある山頂に建立された「剣峯大神」に見送られながら尾根道を降ると、本日最初の峠でもある白石峠へと至る。四阿にサイクリストが休憩しているのもいつもの通りだ。この先、高篠峠方面に行くなら舗装路を嫌って川木沢ノ頭(874m)を超えていくのも良いかも知れない。が、かつての旧道の道筋は林道奥武蔵1号線(通称:奥武蔵グリーンラインが忠実にトレースしているし、無駄に時間と体力を消耗させることもないので林道を歩いた方が賢明だろう。白石峠から高篠峠までは凡そ30分で、時刻は945となっていた。因みにこの高篠峠のことを定峰側では大野峠と呼んでいる。大野側では概ね高篠峠だが、古くは橋久保峠で、高篠の地名が冠されたのは町村制施行(明22)により高篠村が成立して以降のことであろう。

この峠には昭和8年に設置された石の角柱型道標がある。そして、そこに刻まれた「→秩父芦ヶ久保村ヲ経テ秩父方面ニ至ル」は稜線の道で、現在では藪になっていては入れない。仕方なく舗装された林道をグネグネと歩き、再び稜線となった所で山道に入る。現在は丸山に向かうハイキングコースだが、そもそも防火帯で旧道は谷側にそって続いている。そしてこれが大野峠の上の道で、陣場平山の山ノ神祠へと至る。この祠の前は少し広くなっているので、馬繋ぎの休み場であったのだろう。陣場平山の展望台は、現在パラグライダーの発進所になっているが、下の大野峠にある四阿もかつてはこの場所にあったものである。展望はすこぶる良いものの、春日俊吉氏の言葉ではないが、人の心が荒むと山も汚れてしまうものらしい。そういえば、先だって勝負平付近の旧道(第一開拓)を歩いた時に、大規模な伐採・整地作業がされているのに驚いたものだが、そこが太陽光パネルで覆われているのが見えた。もとは放置されたバブル時代の別荘分譲地であったはずだが、流行りの電力自由化で設置されたものに違いない。だが、山々が植林に埋もれている現状ではこうした土地利用もやむを得ないのではないだろうか。

大野峠は江戸末期に建立された馬頭観音が佇むだけの殺風景な峠で、四阿があったところで一休みしようと云う気にはならない。だが、『新編武蔵風土記稿』の云う高篠峠であって、戦前・戦後の一時期にハイカーたちを魅了した奥武蔵高原の中心地でもある。古くから放牧が行われていたことも渡辺渉園が描いた『秩父日記』大野峠ノ図を見てもわかるだろう。また、今でも木々を伐採すれば武甲山を間近に見る大展望が広がるはずだが、肝心の武甲山がああも削られてしまっていては、返って意気消沈してしまうのは間違いない。思うに苅場坂峠方面に進んだ所の独標858m付近が牛小屋跡で、ここまで草原が続いていたはずだが今となっては知る由もない。その先のカバ岳(896m)は宮内敏夫氏の記述によるが、ときがわ町側の地名が半根石、横瀬町側が大平である。だが、芦ヶ久保の中井集落あたりで地名を問えば、当時の人はカバタケと答えただろう。何故なら山の西側斜面の地名が加畑(クァバタケ)、つまり桑畑だったからである。そして七曲り峠と名付けられた鞍部も間違いと指摘しつつ、ここから本当の「奥武蔵の真髄」が始まる。参加者からも「この道は私たちのようなお洒落なオバさんたちしか似合わない」との声が聞けた手つかずの秩父街道だ。

苅場坂峠(カバ坂峠の表記が正しいと思うが…)に到着したのは1230。りんどう茶屋が無くなってしまった今ではこの駐車場で昼食休憩をとるのもどうかと思う。どうせ休むなら奥武蔵の聖地・奥武蔵高原スキー場ヒュッテ跡の方が良いに決まっている。春日俊吉氏は戦前にこの場所にあったヒュッテで『奥武蔵の山と丘陵』を執筆した。この本はまさに「奥武蔵」を世に紹介した初めての書籍であり、後に発足した奥武蔵研究会のルーツでもある。そしてその流れが実業之日本社『ブルーガイド』や昭文社『山と高原地図』へと繋がっているわけだ。ともあれ、当初の山行計画ではこのカバ坂峠から牛立ノ久保に戻り、虚空蔵峠やサッキョウ峠を経て、旧正丸峠から正丸駅に向かうはずであった。しかし参加者の皆さんも奥武蔵の真髄に触れて林道に寸断されながらも僅かに残る秩父街道を探索することに興味を抱いたようである。そこでツツジ山(横見山)北斜面に残る秩父街道から奥武蔵グリーンライン(林道奥武蔵2号線)に出てブナ峠、そして飯盛峠へと繋いで行く。そして時刻も1500となったので、飯盛山の展望台(落葉の季節以外展望なし)で小休止した後、稚児の墓から北川尾根を降る。しばらく通っていなかったが、小字慈光小屋の周辺は倒木ばかりでまともに歩けないような状態だった。

かつては優秀な展望台だったという前坂峠、通称お大師も今は植林の中。但し、それでも奥武蔵の人々の暮らしに根差した独特の雰囲気は保ち続けている。そしてこの分岐から東に降れば高畑集落となる。この集落は桜や三つ葉つつじが咲く4月初旬の頃に訪れることをお勧めする。但し、旧道が柵で塞がれていて少しばかり面食らった。茶畑を蛇行する車道はかなり長いからだ。わざわざ柵を設けることをしなくてもよさそうだが、旧道の山側にまで柵が回らされていたのを見て、鹿除けの為だとすぐに分かった。近頃は鹿が増えすぎてしまい、どこの山里でもいたずら好きな鹿に手を焼いている。だが集落から下の林道高畑線に出てしまえば西武秩父線西吾野駅まで1時間とはかからない。駅到着は1640で、無事に今回の山旅を終えた。

参加していただいた皆さんお疲れ様でした。次回もまたよろしくお願いいたします。




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